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【超解説】 メンヘラたちの「シャイニング」

たとえば、猟奇殺人のような出来事があったり、ジョーカーのような者がいると、多くの人は「なぜ狂ったのか」と疑問を持ち、その答えを犯人の経験の中に探し出そうとする。それはすなわち、人は何かのキッカケによって狂う、という因果を見出そうとすることだ。映画「ジョーカー」はそのために作られたポルノだという話は先日書いた。
ところが”なんとなく仏教徒”の僕はすぐにこう考える。
「初めから狂ってるんでしょ?」
この問いをヨーロッパやアメリカをはじめ多くの人たちが受け入れがたい理由は、キリスト教である。キリスト教では信者は”神の子”なのだ。狂っていては困る。デカルトの「方法序説」の書き出しを紹介するまでもない。
かつてミシェル・フーコーは「狂気の歴史」という本において狂気(folie)を知の対象として扱うことを論じていたが、僕はこの狂気をもっと拡張して、誰もが狂っていると考えている。この時の”狂う”とは何を意味するかというと”常軌を逸する”という表現が狂うという言葉の類語だとすれば、この”常軌”を共有できる時には互いに正常だが、人の行動は多岐にわたるので、誰しも何かの面では狂っているし、表に出てくる狂気もあれば潜む狂気もあるということだ。
さて、映画「シャイニング」をつまらないと評する人たちの多くは「なぜジャックが狂ったのか分からない」と言う。確かにキューブリック監督は、ジャックのアルコール中毒やインディアンの墓の跡地に建つホテルといった要素を並べつつも、これといった決定打なくジャックを狂気に走らせた。原作者のスティーブン・キングは「ホテルという大きなものに宿る超自然の力が映画では全く描かれていない」と激怒したそうだが、ここでは映画と原作の違いについて語ることはしない。映画は映画だ。
ジャックがアルコール中毒であること、これは映画「シャイニング」の重要な土台だ。アメリカだけでなく世界中でアルコール中毒やオピオイド中毒、セックス中毒など、様々な執着(obsession)が問題になってきた。この時、多くの日本人は自分に無関係のことだと思うかもしれないが、他所の国民から”仕事中毒”や”ロリータ中毒”と笑われていることに気付いていない。つまり、日本人の1年間の生活スタイルは、日本人の大多数にとって常軌であるが、外国人にしてみれば立派な気狂い沙汰なのだ。また、余談になるが、日本は精神科の患者数が人口あたりで世界トップクラスである。なぜか表立って議論されることがないが、ここは立派な発達障害国家なのだ。
閑話休題。今を生きる人たちはアルコールやオピオイドのような薬品の中毒に限らず、何かの強迫観念(obsession)を抱えている。もう少し正確に言えば、抱えざるをえない生活を国家や企業によって強いられている。「いいねの数」だとか「ワクチン」などにこだわっている人たちは、僕にとって狂った人だ。テレビやSNSはほとんど害悪でしかない。
さて、アルコール中毒によって精神が蝕まれていく、言い換えると、アルコール中毒ではない人たちの平均的な思考から逸れていくことによって、ジャックは"Here's Johnny!"へと至る。主人公ジャック・トランスの設定上の本名はJohn Daniel Edward "Jack" Torrance である。ジョンという名前を持つ者がジャックと名乗ることは普通だが、あの扉を割ったシーンで Johnny に変わる、という解釈もできるのだ。この台詞は、アメリカのお茶の間で30年間も親しまれたジョニー・カーソンの番組に由来するという説がもっともらしいものの、ジャックの本名はジョンである。
では、怯えて逃げる妻のウェンディを見ていてどこか狂気を感じたのは僕だけだろうか。このnoteの画像にも使用したが、キューブリック監督は全ての登場人物を気狂いとして描写しようとしているように思える。言い換えると、全ての人が持つ狂気を目立つように撮ったと感じるのだ。
ジャックはアルコールによって自らの狂気を出現させたように、ウェンディは追われる身になる中で常軌を逸する手前まで追い詰められた。そもそも、息子のダニーと料理長ハロランは特殊な能力シャイニングを持つという設定だが、これは見方を変えると、もちろんキングにそのような意図はないだろうが、妄想性障害か精神分裂病とも言える。少なくともキューブリックの映画を観る限り、ダニーが”普通の子”だとは到底思えないように撮影されている。
話を整理しよう。ポップコーンを食べながら「シャイニング」をボーッと見ると、ジャックがアルコール中毒かホテルの呪いかその両方のせいで狂ってしまい、ウェンディたちに襲いかかって最期は凍死、という話になる。ところがキューブリック監督はこの映画において狂気を全員に散りばめ、それぞれの狂気を描いているように僕には見える。斧を振り回すだけが狂気ではない。
あの新型コロナ騒動の時、世の中は「不要不急の外出の自粛」だとか「県外へ行かないで」とか「お前は反ワクチンか」などと言い、”善良な市民”という体でやってくる狂気を出現させた。いつもケータイやパソコンを覗き込んで何かを気にしている執着、狂気もある。ただそれらが常軌である限り、決して人びとはそれらの言動を”狂っている”とは感じないだろう。
少数派は常に損なのだ。

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