ジョーカーの元ネタ / 「キング・オブ・コメディ」
この9月21日は「バットマン」シリーズが生まれて85周年に当たるらしい。探偵をこなす陰気な御曹司の物語がここまで人気となった理由は、ジョーカーという画期的な悪役のおかげなのだが、大ヒットした2019年の映画「ジョーカー」の元ネタが、マーティン・スコセッシ監督の1982年の映画「キング・オブ・コメディ」であることを知る人は少ない。いや、正確に言えば元ネタというよりも、「キング・オブ・コメディ」の根本を引っこ抜いて、ありきたりな話に変更したものが「ジョーカー」である。
「キング・オブ・コメディ」の主人公ルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)は、自分のことをコメディの王様になる人物だと思い込んでいる、妄想性障害の持ち主だ。誇大妄想である。全米で有名なコメディアンのジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)にストーカーの如く付きまとい、そして自室では妄想と会話をし、ジェリーの言葉を曲解して迷惑な行為に及ぶ。妄想、執着、そして現実を認知する能力が疑わしいという、精神を病んでいる男だ。ところが、気さくに人と会話することはできるため、この映画のようにルパートをじっと見つめていない限り、病人だと一目で分かる訳ではない。精神病だと診断されている患者は、患っている人の半分にも満たないという説は正しい。
ロバート・デ・ニーロはこの難しい役を憑依と言いたくなるような次元で演じ、観ているこちらが途中から不快になってくるほど、脳の能力がおかしい男であり続けた。精神病という単語が指しているものは、ほぼ全て脳の仕業なのだから、"精神を病む"という言い回しよりも、脳のいろんな機能のうちいくつかが不全である、と表現した方が現実に近いだろう。
「キング・オブ・コメディ」はこうしたルパートの症状が引き起こす問題を描き、生きる上で人はどのような脳の能力を備えているべきなのかと考えさせられる。ルパートの生い立ちは本人がスタンドアップの時に少しジョークとして触れた程度であり、そのことがルパート自身の問題の"原因"であるようには一切撮影されていない。そもそも、本人は自分に問題があるとは思っていない。それがルパートという人物の病である。
僕が「ジョーカー」という映画を全く評価できない理由はここにある。
ホアキン・フェニックスの折角の熱演なのに、「ジョーカー」という映画は主人公アーサーがジョーカーとなる、つまり狂気に走る"原因"として、貧困やいじめ、本人の患っている障害など、いわゆる社会のなかで"負"とされる事柄をこれでもかと詰め込んだ。これでは、狂気に原因があり、そしてそれは環境によるところが大きいという誤ったメッセージを観客に伝えることになる。確かに、環境によって病んでしまうこともあるし、世間の見方が左右されることは大いにあるだろう。ところが、映画「ジョーカー」を観る限り、あのような状況に置かれたアーサーがジョーカーになるという描き方をするならば、ジョーカーはアーサーに戻ることもできるはずだ。つまり、社会病質あるいはソシオパスに至る"要因"をあまりにも単純に表現している。そもそも、要因なんてなく、生まれた時から脳のどこかが発育不全でしたという、ただそれだけのよくある話の方がいいじゃないか、ということだ。ジョーカーという、あのイカレポンチの所業の原因が貧困や障害だなんて、ちょっと人間を単純に見すぎていないかと思う。脳は自動車のエンジンのように単純な構造をしていないのだ。
ルパートは物語の最初から最後まで、妄想のなかに生きている。それに対してアーサーは、"みんな"のせいで病んだという描かれ方をしている。これは現実のくだらない単純化であり、分かりやすいぶん、多くの観客に"同情"あるいは"納得"してもらえるだろう。ところが、心の病理とはそんなものではない。貧困やいじめ、障害をバネにする人もたくさんいるからだ。僕は「ジョーカー」のような映画のことを同情ポルノと呼んでいる。
「バットマン」85周年おめでとう。