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あえて触れない描法 / 「グランド・ブダペスト・ホテル」

シュテファン・ツヴァイクという名の作家をご存知だろうか。
主にオーストリアで生活していたユダヤ人で、おそらく第二次世界大戦前のヨーロッパ大陸でもっとも有名な作家の1人だ。ドイツ語で著作を発表していたので、大学でドイツ語を学んだ方は名前に聞き覚えがあるかもしれない。僕は第二外国語がドイツ語だったし、戦前から戦後にかけてのヨーロッパの書物をたくさん読んだので、”ずいぶん名前がよく出てくる奴だな”と思っていた。
さて、ウェス・アンダーソン監督の「グランド・ブダペスト・ホテル」は、エンドクレジットの先頭に”ツヴァイクから触発されたものです”と書かれている。僕は本作を観て、ヨーロッパが”失ったもの”を描こうとしているのではないかと感じた。なぜなら、ナチスから逃げて各国を亡命したツヴァイクの回想録の題名は Die Welt von Gestern 「昨日の世界」である。
しかし、舞台は架空のズブロフカという国だし、ナチスを連想させるような出来事はあるものの、全てがフィクションとして完成されている。何かを描く時に、そのことについて触れないことでより鮮明に輪郭が見えるという効果である。アンダーソン監督の独特の色調もフィクションである感覚を強くし、この映画を”楽しいバディもの”に仕立て上げることに成功している。
レイフ・ファインズ演じるグスタヴは同性愛者だし、随伴しているベルボーイは移民である。こうした少数派を主役に設定することで出来事を見やすくするという手法は近年の流行だろう。マナーや所作、気品など、戦後にどんどん失われていったものを追求するグスタヴたちの姿を見て、客はじぶんたちがかわりに何を追求しているかを悟るように仕向けられている。
アンダーソン監督は本作の取材としてチェコのズデーデン地方にあるカルロヴィ・ヴァリという温泉街を訪れたという。なるほど、確かにグランド・ブダペスト・ホテルが建っていそうな町である。ご存知の方もいるかもしれないが、ズデーデン地方は1938年にドイツに”編入”されている。ちなみに、劇中でホテルが接収されたシーンは、明らかにレニ・リーフェンシュタールによるナチスの記録映画「意志の勝利」のパロディである。
あえて触れない、という技法に徹したアンダーソン監督の見事な手腕である。

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