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夢を追いかけているようなもの / 「マルタの鷹」
We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.
(我々とは、夢を構成するもののようであり、儚い命は眠りによって完結する)
ハードボイルド(固茹で)という単語は、その意味がかなり多岐にわたる。もともとは文学の用語であり、感情や心の移ろいをいちいち描写しない、という手法を指している。つまり、語り手が物語のなかで起きていることについて価値や倫理を持ち込まずに伝達するような文体のことだ。ヘミングウェイの文章がハードボイルドの代表格とされ、僕は大いに影響を受けた。やがてハードボイルドは探偵小説など大衆文学でも流行し、主人公が淡々と捜査を進めていくスタイルが確立された。こうした冷徹とも言える流儀は、禁酒法と世界恐慌によってアメリカ人に厭世観のようなものが浸透していたことと関係しているだろう。
さて、そんなハードボイルドの1号艇といえば1941年の映画「マルタの鷹」であり、その主人公サム・スペード(ハンフリー・ボガード)である。小説家ダシール・ハメットの著した原作は高く評価され、レイモンド・チャンドラーなど多くの作家にパクられ影響を与えた。
この物語の筋書きは決して複雑ではない。スペード・アンド・アーチャー探偵事務所にミス・ワンダリーと名乗る女が訪れ、サーズビーという男から追われている妹を守ってほしいという依頼をする。ところが、依頼を引き受けたアーチャーだけでなくサーズビーも射殺されてしまう。相棒を殺されたスペードはミス・ワンダリーに本当のことを言えと詰め寄り、やがて"マルタの鷹"と呼ばれる宝物を巡っていろんな人物がスペードの前に現れるーー。
まず、スペードとシャーロック・ホームズの違いは、その手法にある。シャーロックは賢いあまりに社交的でなく、犯行の事実を観察と洞察によって手繰り寄せていくスタイルだった。だからシャーロックにはワトソンという相棒が必要不可欠であったのだが、スペードは登場人物たちに協力させる(しゃべらせる)ために、相手との接し方を変えるような男である。冷静沈着な姿を基礎にして、そこからカメレオンのように対応を変化させる。探偵の理想像のような男だ。
このようなスペードがいつもタバコを咥えてコートを着込んでいる姿が大人気となり、ハードボイルドという単語はハンフリー・ボガード演じるサム・スペードのことを指すようになった。アメリカではこうした映画がたくさん制作され、それらを観たヨーロッパの人たちが"フィルム・ノワール"と名付けたのだから、つまりフィルム・ノワールとは"ハードボイルド映画"ということである。そしてこれまで何度か書いてきたように、アメリカ映画のノワール調にはドイツ映画からの影響が大きいので、たとえば「マルタの鷹」にはフリッツ・ラング監督の名作「M」で主演していたペーター・ローレが出演している。
こうした映画にお約束であるファム・ファタール(運命の女)をメアリー・アスターが演じているが、この役をイングリッド・バーグマンに変えたものが翌年に公開された「カサブランカ」である。この映画にもペーター・ローレは登場する。ただ、「カサブランカ」は恋愛がメインテーマなのでどうしても「マルタの鷹」よりソフトボイルドな仕上がりとなっているものの、主人公リックはサム・スペードと同様に、本心を最後まで打ち明けることのできない男だった。サム・スペードやリックのように全てを飲み込んだまま生きるような姿をハードボイルドと名指している人もいるようだが、それは映画の結末に過ぎず、本来のハードボイルドとは"いちいち描写しない"ということである。
「マルタの鷹」のラストシーンのセリフは有名になった。
The stuff that dreams are made of.
(夢はこれで作られているのさ)
字幕は「夢がつまっているのさ」と表示されていたが、ほぼ誤訳だろう。このセリフは、冒頭に掲げたシェイクスピアの『テンペスト』が元ネタである。夢が中につまっているのではなく、本作における鷹のような特に価値のないものに人は価値を見出し、人生を浪費しているのではないか、つまり、人生とは夢を追いかけているようなもの、という指摘である。富や名誉に群がる人々を揶揄しているのだ。
この dreams are made of という言い回しは特に好まれる表現であり、いろんな映画のセリフや流行歌の歌詞のなかに登場する。吹替でしか観ない方はともかく、字幕で観ている方々は今後気にしてもらいたい。