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グラディエーターが数学者 / 「ビューティフル・マインド」

大雑把に言えば、アカデミー賞もパルム・ドールも、21世紀になってから茶番と化してしまった。2001年の映画「ビューティフル・マインド」はアカデミー賞の作品賞を受賞し、ラッセル・クロウは前年の「グラディエーター」に続いて作品賞の受賞作に主演した俳優となった。もちろんラッセルの演技は素晴らしいものだが、「グラディエーター」より「トラフィック」か「グリーン・デスティニー」が受賞すべきだったし、「ビューティフル・マインド」よりロバート・アルトマン監督の「ゴスフォード・パーク」の方が僕は好きだ。ちなみに、1999年の「アメリカン・ビューティー」から3年連続で作品賞はドリームワークスの映画である。

「ビューティフル・マインド」は公開当時まだ存命だった数学者、ジョン・ナッシュの伝記を原作とする映画だ。ところが、映画化に当たってかなり美談に仕立て上げてしまい、実際のナッシュの人生における重大なこと(同性愛や妊娠させた女を捨てたことや妻と離婚したこと)が全て省略されている。いくら"映画は映画"という立場の僕でも、さすがにこれを"実話"という顔をして公開することには問題があると言わざるを得ない。こういう美談の押し売りがいかにもディズニー出身者のドリームワークスである。僕はスヌーピーが好きなディズニー嫌いである。
ピアニストのデイヴィッド・ヘルフゴットの生涯を描いたとされる1996年の映画「シャイン」と同じく、まだ生きている人物の人生を勝手に"創作"すべきではない。
それに、精神分裂病の患者が数学で業績を残した、ということは別に大騒ぎするほどのことではない。そもそも古代エジプトのパピルスにも症状のような記述があるほど古い"病"だ。ちなみに日本列島では統合失調症と勝手に名前を変えてしまったが、これは関係者による自己満足のためでしかない。というのも、初めにこの症状を精神医学として扱ったスイス人医師が Schizophrenie という名で分類し、今日でも英語では schizophrenia である。この単語は、ギリシア語の schizein (分裂させる)と、phren (頭のなか)を結合したものだ。つまり、精神分裂病という訳が正しい。統合失調などという日本語として成立していない表現に変えた日本の関係者は、世界中で差別語を使っている、と言えばいい。我が国の"差別語"なんて、この程度の代物である。そもそも、僕の日本語の能力によれば、統合が失調している状態とは、すなわち分裂していることだ。精神分裂病で問題ない。日本人は差別という言葉の意味すらよく分かっていないようだが、それはおそらく差別が存在しないかのように、問題に触れないという態度を続けてきたせいだ。
さて、話が脱線したものの、「ビューティフル・マインド」や「シャイン」のような、窮地から頑張って復帰しましたという物語そのものは人々の心を打つものだが、それなら実在の人物にする必要は特にないだろう。
僕はこういう美談はあまり好きではない。人生とはもっと"語りたくないこと"があるからだ。「ソフィーの選択」などはそういうことを描いていたし、原作となったナッシュの伝記は関係者たちにかなり取材を重ね、映画に描かれなかった数々の"人間らしい"エピソードが記されているそうだ。僕はそれを映像にしたものを観たかった。
なお、ジョン・ナッシュは数学者らしく痩せ型の男だが、ラッセル・クロウは「グラディエーター」の翌年だからか、つまみ食いばかりしているマクドナルドの店員みたいな体型だった。いくら演技力があるにせよ、このキャスティングには無理がある。
アカデミー賞は「グラディエーター」からおかしくなった。

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