アカデミー不倫賞 / 「イングリッシュ・ペイシェント」
愛の物語の大半は不倫である。それはおそらく、欧米でも日本でも、かつては恋愛結婚が一般的ではなかったせいではなく、そもそも愛というものは冷めやすいので、餃子のように熱いうちに食べようとすると不倫になるからだろう。それに、自由に恋愛して結婚できる時代だというのに、未だに我が国では「もうすぐ30だから」などというバカげた理由で結婚する女が大多数なので、そもそも家庭に愛などはじめから無いと言っても過言では無いだろう。言い換えると、人を愛するということも一種の才能のようなもので、エゴ以外のことに興味がない、すなわち他人を愛することのできない人もそれなりに存在する。我が国で政治家や芸能人の不倫が大騒ぎされる理由は、メディアがそうして焚きつけておけば、他人と同じことをしたがり、言いたがるという国民病を皆が発症しているだけである。別に不倫という事態そのものを問題視している人など決して多くはない。
さて、アカデミー賞において作品賞をはじめ9部門を制した1996年の映画「イングリッシュ・ペイシェント」も、思い切り不倫の話である。しかし不倫であるがゆえに、燃え上がるような愛の顛末を描くーー、はずなのだが、弱っている女を洞窟に放置すんなよ、という野暮なことを言いたくなって仕方がない小説/映画である。僕ならば何か燃やせるものを少しずつ燃やして煙を立てながら、女を抱えて街の方へ歩くだろう。
僕が大学生の頃、映画の好きな人はよく本作を話題にしていた。僕は恋愛映画はほとんど観ないのだが、そんなに良いのかと思い、ペイパーバックの原作を買って読んだ記憶がある。これは小説の方が良い出来である。ただ、もちろん映画もレイフ・ファインズの持つ独特の哀しみが滲む佳作と言える。ちなみに、日本ではほとんど知られていないようだが、本作の主人公であるラズロ・アルマシー(レイフ・ファインズ)とは実在した砂漠の探検家の名である。この小説/映画で描かれたような人生は本人と関係がない。
主人公ラズロがいつも手にしているヘロドトスの「歴史」に記されたエピソードのなかから、ヘラクレス朝の最後の王カンダウレスの逸話が引用される。自らの護衛ギュゲスに妻の美貌を見せたくてたまらなくなった王が、寝室にこっそりギュゲスを忍ばせて妻の裸を見せたところ、そのことを察知していた妻が後になってギュゲスに詰め寄り「王を殺して私を娶るか、私の護衛に即刻処刑されるか」の二択を突きつけられるーー、という伝説だ。こうした説話は王権が簒奪された時の世界共通の"よくあるパターン"であり、このことによって「イングリッシュ・ペイシェント」という物語の行く末を暗示するとは、思わせぶりにも程があるだろうというレベルなのだが、みんなそんなことよりもラズロとキャサリン(クリスティン・スコット・トーマス)の不倫に夢中になるので、ジェフリー(コリン・ファース)が自らを殺すシーンがずいぶん呆気なく通り過ぎる。つまり、不倫をしている女には「旦那を殺して私と結婚しろ」という本音が昔からある。ところが現代において旦那を殺してしまうと警察沙汰になるだけなので、妻が不倫していることも知らず、殺害されてほしいと妻に願われている男がこの世には少なくないということだ。だからこそ、メロドラマのように編集された本作は世界でものすごい興行収入をあげたのだ。ブッカー賞を受賞した原作の小説はもっと"文学"である。
こうした顛末を"語る"ことになるキッカケとして、カラヴァッジョと名乗るカナダ人の諜報員(ウィレム・デフォー)を登場させたことは物語を構成する上で巧みである。なぜなら、イギリスの情報当局に協力していたカナダ人のカラヴァッジョとは、それが本名なのかどうかも分からないし、そもそもこの物語はイタリア戦線のど真ん中で語られている。カラヴァッジョとはイタリア系の名である。このように、ドイツ軍の将校によって指を切断されたと"語る"カラヴァッジョによって、全身が焼け爛れてラズロなのか誰なのか分からない男の、本当なのか作り話なのか分からないストーリーが展開しているようにも見える。原作ではこうした"物語る"ということが登場人物によって異なる点に焦点を当てて話が進んでいたが、しかしこれは映画なので、スクリーンの景色と会話によって表現する他はない。ウィレム・デフォーは持ち前の怪しい雰囲気を存分に発揮していた。
キャサリンの最期の時の日記を読んでもらいながら死に至るラズロによって、このメロドラマは綺麗に幕を閉じる。原作では終幕でカラヴァッジョが「原爆のようなものは敵国が白人の国なら落とさなかった」と嘆いていたが、これを映像にしたら作品賞どころか候補にもならなかったかもしれない。映画はまだ新しい表現であり、文学のように優れた読者が多い訳ではない。誰にでも分かるように、という風潮がどんどん強くなっていったことが、映画という表現がほとんどビジネスと化した原因だろう。クリスマスムービーのような"誰でも楽しめます"という映画が大成功すれば、みんな似たようなものを作るに決まっている。いわば世界のディズニー化が進んでいるのだ。