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【考えるヒント】 僕のアカデミー賞がぁ! / 「ディーパンの闘い」
AIを使用していることがバレて大騒動になっているアカデミー賞の最多ノミネート作「エミリア・ペレス」に、主演"女優"も薪を焚べた。女優とはいえ親から与えられた性別は男であるカーラ・ソフィア・ガスコンによる過去の人種差別に当たるツイートがいくつか発見され、近年のアカデミー賞の価値と合わないことから袋叩きに遭い、本人はCNNで泣きながら弁解する羽目になった。ちなみにガスコンはスペイン出身の創価学会員である。
この一連の報道のなかで「エミリア・ペレス」の監督がジャック・オーディアールであることを知った。2015年の映画「ディーパンの闘い」でパルム・ドールを受賞するも、納得できない観客や批評家からブーイングを浴びた男だ。"21世紀のアカデミー作品賞はゴミ"という僕にとって、パルム・ドールもまた一部の例外を除いて、2002年の「戦場のピアニスト」以降はつまらない作品ばかりだ。「ディーパンの闘い」は観ている途中から、なんでこの主人公たちの話を撮ったのか、と不思議で仕方がなくなり調べたところ、オーディアール監督という男の下劣な品性を知ることになった。今般の騒動について「僕は主演女優と連絡をとりたくない」と述べているそうだが、それはそうだろう、己の名誉のために少数派を利用しているに過ぎないからだ。
2015年の映画「ディーパンの闘い」は、主人公たちがスリランカでタミル語を話す少数派である。政府軍と戦闘していたタミル・イーラム解放のトラの兵士だった男を主演に迎え、物語はパリ郊外の団地でありながら、ほとんどの会話はタミル語でなされているフランス映画だ。兵士と難民がフランスに亡命した、という設定なのだが、僕はどうみてもこの話がタミル系の人である"必要"を感じられず、途中で一時停止を押し、制作の経緯を検索してしまった。こんなことは滅多にしないのだが、そのくらい違和感が常にスクリーンから滲んでいる。スリランカの内戦もまたひどいものであったことくらい知っているからだ。
オーディアール監督曰く、「わらの犬」のような映画を撮りたくて、しかしフランス人が誰も知らないような出自の人たちを探していた、だそうだ。こういう頭の悪い発言を平気でするような輩だから、三度目の正直でパルム・ドールを受賞した時に「ミヒャエル、今年は映画を制作していなくてありがとう」と、バカなコメントをするセンスを持ち合わせているのだ。というのも、この作品の前にノミネートされた2回とも、ミヒャエル・ハネケ監督がパルム・ドールを受賞していたからだ。名誉が欲しいだけであることはこれらの発言から十分分かるだろう。いや、もし分からないようなら、おそらく映画や小説には向いていない。
そんなオーディアール監督が今回の「エミリア・ペレス」では、性転換したマフィアのボスを主人公にしたそうだ。LGナントカが流行しているから僕も起用してアカデミー賞を狙うゾという魂胆が見え透いているし、だからこそガスコンが人種差別で"炎上"したことによって、僕の名誉がぁ!僕のアカデミー賞がぁ!と、部屋のなかでシャンパンの瓶を叩き割っている姿が眼に浮かぶ。
カンヌ国際映画祭でオーディアールに対してブーイングした人たちは正しい。この男はアートも表現も一切興味がなく、ただ己の名誉が欲しいだけだ。そんなことは映画「ディーパンの闘い」を観ればよく伝わってくる。これをパルム・ドールに選んだ時の審査委員長はコーエン兄弟である。過大評価兄弟によってこういう作品が選ばれてしまうからこそ、誰かが何かを審査するということは難しいのだ。
我が国のナントカ賞の選考委員たちをよく見てみると良い。大した作品もつくっていないくせに、年功序列と慣習のなかで選考委員というお鉢が回ってきただけだろう。そもそも、僕が最近書いていることからも分かるように、名作というものはそれがどんな形式の芸術であれ、ナントカ賞には縁がないものだ。そんなものはいらない、という態度こそアートには相応しい。しかし、世の中がこうして大衆化することで、自称アーティストにも大衆が増えたということだ。