
ヌーヴェル『親和力』 / 「突然炎のごとく」
Jules et Jim というフランス語は「ジュールとジム」という意味だ。フランソワ・トリュフォー監督が1962年に発表したヌーヴェルな映画の題名なのだが、これがなぜか日本では「突然炎のごとく」になる。「星月夜」という題名の絵を「ピカチュウ」と名付けるようなものなので、とにかく我が国の映画の関係者は、今後は余計なことをせずに直訳しろと願う。
さて、トリュフォー監督は1959年の映画「大人は判ってくれない」によって高く評価された。あの作品ではバルザックが参照されていたように、トリュフォー監督の初期の映画は文学が下敷きになっている。その点でジャン=リュック・ゴダール監督よりも"高尚"である。
「ジュールとジム」はゲーテの『親和力』のリミックスである。トリュフォー監督の友人でもあったフランス人作家の小説が原作とされているが、劇中に『親和力』が登場することからも元ネタがドイツ文学であることは明白だ。僕は高校生の頃にドイツ文学をよく読んでいたので、小さな活字の文庫本で読み、なんだこりゃ、と思ったことを覚えている。高校生には早すぎた。
さて『親和力』とは要するに、ある夫婦が"実験"と称して友人の男女を家へ呼び寄せて生活した時に、AとBという夫婦と、CとDという友人がいるとすれば、AB+CD→AC+BD という"反応"をするのではないか、そしてそのような人間同士の相性によって、ちょうど化学における親和力のように、いくら結婚などの制約があろうとも相性の良い方を選んでしまうのではないか、という話である。
「ジュールとジム」はこの『親和力』の筋書きをほぼサンプリングしている。『親和力』では妻シャルロッテと姪のオティーリエという2人の女が登場したが、「ジュールとジム」はカトリーヌ(ジャンヌ・モロー)を巡る話になっている。
この映画に限らず、ヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画に登場する女はどこか素っ頓狂な、現実にいれば何らかの人格障害を疑われそうな性格であることが多い。これはもちろんフランスをはじめ世界が変わっていくなかで、新しい価値観を提示したいという動機に基づいた表現だ。ジャン=リュック・ゴダール監督の作品によく登場する女優アンナ・カリーナの演じていた人物も、みんなどこか本作のカトリーヌに似たような女である。すなわち、快活であり、男に対してどんどん意見をし、特に貞淑という訳でもない。こうした性格を"自由奔放"と表現する人が多いようだが、これはキリスト教という鎖からの離脱を暗示している。だからカトリーヌは最後にジムを乗せたまま川へ突っ込むのだ。ゲーテの『親和力』も刊行された当時、その筋書きが破廉恥であると怒られたくらい、ヨーロッパはつい先日までキリスト教徒にあらずんば人にあらずの土地である。こうした世相の変化は大戦の経験と、戦後の共産主義の流行と関係している。そもそも、ジュールとジムにしても伝統や慣習に囚われていない"ボヘミアン"な生活をしている。これはアメリカのヒッピーとも共通する既成の権威への反抗であり、すなわちアンチキリストの姿だ。
ジムがジュールとカトリーヌとパリの映画館で再会した時、スクリーンではナチスによる焚書の場面が映されていた。ナチズムに沿わない書籍を燃やしてしまうという焚書坑儒に似た言論や思想の弾圧だったが、トリュフォー監督にとっては宗教も映画も、あらゆる表現が実質的に"検閲"を行っているようなものではないか、という問題意識があったのだろう。キリスト教の教義に沿うように、あるいはロマン主義なり古典主義に沿うように、映画や小説にも既成の枠が存在しているじゃないかという指摘は、トリュフォー監督が本作の4年後に「華氏451」を映画化したことにも表れている。もっと自由に表現しようというヌーヴェル宣言だろう。
フランス映画らしく、相変わらずナレーションや会話によって"口数の多い"映画だが、僕はトリュフォー監督作のなかでは高く評価している一作だ。邦題がふざけているだけである。