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ロリコンがテーマじゃないよ / 「ロリータ」
ロリコンという単語が、ロリータ・コンプレックスの略であることを知っている人は多いと思うが、これは和製英語、要するに造語である。日本列島では未成年への性愛を全てロリコンと呼びならわしているが、英語では思春期より前の小児へ性欲を抱くことを pedophilia (ペドフィリア)と呼び、思春期の頃の少女へ性の倒錯を持っていることを hebephilia (ヘベフィリア)という。欧米で活動したロシア人の作家ナボコフは、ヘべフィリアを題材にした小説「ロリータ」を1955年に発表し、これをスタンリー・キューブリックが1962年に映画化した。
僕が以前から書いているように、キューブリック監督は登場人物の狂気を描くことが一貫したテーマなので、この映画もまた、原作よりもずっと狂気に重心が置かれている。なお、映画は原作とは異なるものだという僕の持論により、この記事が長くなっても面倒くさいので、ナボコフの原作との差については触れない。
ロリータこと14歳のドローレスに惚れてしまったハンバート(ジェームズ・メイソン)は、へべフィリアという倫理に反した欲望を隠し、ロリータを我が物にしようと逃避行を始める、という筋書きなのだが、この欲望そのものは狂気には当たらないだろう。なぜなら、劇中で描写されているように、ロリータはすっかり大人の身体をしており、学校に通う生徒であるという状況を度外視すれば、男から見て性の対象になることは自然だからだ。かつての世では14や15の年で嫁に行くなんて当たり前のことだった。ハンバートの狂気とは、ロリータの年齢ではなく、その行動の全てを管理したがるような執着にある。これを現代の言葉でいえば、"ストーカー気質"とか"束縛してくる男"だろう。そしてこうした性格は、妄想性障害と無関係ではなく、また妄想性障害は統合失調症と無関係ではない。実際に、劇中で何度もハンバートが妄想に取りつかれている様が描写されていた。多くの精神病とはスペクトラム、すなわち境界のあやふやな"範囲"のなかにある。つまり、ハンバートは大学で講義を担当する作家でありつつ、病の範囲に属している精神を持つ男ということだ。病院で診断されたことで精神病に"なる"のではなく、もともと多くの人たちはどこかで"狂っている"範囲に属しているという視点は、ロアルド・ダールやキューブリックなど多くの才能ある者たちが表現してきたことだし、僕もそのように考えている。
ロリータの母シャーロットは性欲に執着し、クレア・クィルティ(ピーター・セラーズ)はロリータに執着し、もはや病人フェスティバルのような映画である。ところが、キューブリック監督はこうした倒錯を撮ることで、性愛や日々の行動のなかに当たり前のように潜んでいる狂気を分かりやすく観客に見せているのだ。こういう映画を見て「私は普通の人だから関係ない」と思う方は、だいたい狂った行動をどこかでしていることに気付いていないだけである。だから本作では、劇中で何度も normal (普通)という単語を登場人物たちに言わせていた。普通という単語を見えないところで支えているものは無数の狂気だということだ。真っ当な人たち、あるいは普通の人たちに潜む"異常さ"を狂気として感じられるくらい露骨に撮ることがキューブリック監督の流儀なのだ。
つまり、包丁か何かの凶器を手にした主人公が奇声をあげるようなホラー映画は、本当のホラーに気付いていない人たちの娯楽である。真に恐ろしいものとは、普通の人たちが抱えている心、そして行動そのものだ。普通とか一般という単語によって隠されているところにこそ、真の病がある。
こうした姿勢は、キューブリック監督の次作「ストレンジラブ博士」にもしっかりと引き継がれた。「ロリータ」も含めて、キューブリック監督の映画とは、登場人物の行動ではなくその原動力である心、精神を表現することに重心が置かれているのだ。