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突撃!隣の利権ごはん / 「アラビアのロレンス」

良い映画なんてそんなにたくさんあるものではない。映画会社や業界の関係者たちが傑作だの名作だのと気軽に銘打つものの、いざ観てみると「どこがやねん」と言いたくなる作品も多い。また、時代の変化とともに評価が変わる映画もある。手間をかけたシーンの撮影や、ロケーションにこだわった作品などは、CGなどの映像技術の進歩によって色褪せてしまう。観客とは人なのだから、やはり人生のことや心模様などを描くことに力を入れてほしい。だから僕はアカデミー賞よりパルム・ドールなど国際映画祭の受賞作の方が好きだ。
たとえば1962年の映画「アラビアのロレンス」はアカデミー作品賞をはじめ7部門で受賞した"傑作"だそうだが、中東の混乱した情勢を招いたイギリス人による言い訳の210分としか思えない。どういうところが傑作なのかきちんと説明してみろと言いたくなる。
本作は1957年の"傑作"である「戦場にかける橋」のデヴィッド・リーン監督と、映画プロデューサーのサム・スピーゲルがタッグを組んだ、いわゆる二匹目のドジョウ映画だ。

主人公は原作の著者でもあるイギリスの軍人T・E・ロレンス(ピーター・オトゥール)である。第一次世界大戦の最中に、イギリスの利益のために当時オスマン帝国だった中東へ行き、工作活動に従事していた男のノンフィクション・フィクションだ。要するに、ビルマの鈴木敬司大佐みたいなものである。ところが、多くの観客はアラブ反乱とその経緯について知らない(別に知らなくて構わない)のだから、映画という時間の制限があるなかで物語を描こうとしても、どうしても青い目の男がベドウィンのコスプレをして砂漠を駆け回っているだけの映画になってしまう。
ただ、こうした主人公の姿は、他の文化圏に滞在することの難しさを伝えてもいる。言葉も宗教も風土も異なる世界で、同じ目標に向かって努力することはできても、生活をともにすることは困難が伴うだろう。異文化交流なんて言うだけならタダだし、男女の仲なら愛があるからまだしも、言語や慣習を異にする男同士なんて戦争になるに決まっているのだ。だからアラブの人たちは反乱を起こしたわけであり、民族自決(self-determination)なんてカッコつけた造語を使わなくても、耳慣れない言葉を話す奴とは仲良くなれない、という人性の真実があるだけだ。
そういう動機を利用して、石油などの利権を確保してやろうというイギリスの思惑によって中東が大きく動いた。これが大英帝国の伝統芸なのだから、こういう映画を指さして"白人の救世主"(white savoir)なんて言っても無意味である。なぜなら、イギリスという国は救世主の顔をしながら登場して他国から搾取することが目的なのだ。なお、昨今の混迷した中東情勢のなかで、サイクス・ピコ協定が有名になったものの、事の発端はその前年にイギリスの高等弁務官とメッカのシャリフとの間で交わされた往復書簡である。面倒を他国に持ち込むプロだが、銃や大砲などの優れた兵器と金を持ってきてくれるのだから、協力してほしい勢力はどこにでもいる。幕末の日本を思い出せばいい。
さて、ロレンスが失意のうちにイギリスに帰国するところで映画は幕を下ろす。壮大な光景をよく撮影したものだと感心するものの、ロレンスに愛もなければ生活らしきシーンもなく、ただ戦闘とラクダが映るばかりである。
ロレンスは帰国してから拷問の快感が忘れられず、軍の友人に金を渡してムチで打ってもらっていたガチホモなのだから、それを映画にした方が良かったんじゃないかと思う。なお、「アラビアのロレンス」が公開された1962年当時でも、同性愛はイギリスで違法だった。計算機科学者のアラン・チューリングが"矯正"されたことを苦に自殺したのは1954年である。このことは2014年にベネディクト・カンバーバッチが主演の映画「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」で描かれた。
イギリスという国が他国に迷惑を持ち込んだ経緯の映画である。もちろん、映画に登場する地域のほぼ全ての国が上映を禁止したというオマケ付きである。

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