この美人は何を嫌悪したのか / 「反撥」
サスペンスやホラーのジャンルでよく流行っている"サイコ系"といえば、ヒッチコック監督の「めまい」(1958年)や「サイコ」(1960年)がその源流だとされることが多い。しかし、僕は1965年のロマン・ポランスキー監督「反撥」(原題は Repulsion)が最も現代のサイコホラーに近いと思う。
まず、ふつうの人は自分が狂っているとは感じていない。そして世の中にはたまに狂人がいて、そういう者を描写するのがホラーだという感覚を持っている。ジキル博士がハイド氏に変化するから世間の人は驚くのであって、はじめからハイド氏であるならそれは理性や良心の"埒外"であるというのがヨーロッパの基本だった。ニーチェやユングなどによってヨーロッパのインテリたちが建前を捨て、理性などという綺麗事では済まされない人間そのものを見つめ直した時、人文科学の世界でルネサンスが起きたとも言える。ただ、当初のうちはあくまでも"狂気"の管理だった。こういう症状がありますよ、という話をするだけなら、こちら側は理性という大地に立っている。そういう意味でヒッチコック監督のサイコ系の映画は「ジキル博士とハイド氏」の延長である。大量生産されるホラー映画の大半もそうだ。
ポランスキー監督は「反撥」において、あらゆる要素をこれでもかとねじ込んだ。まず、主人公のキャロル(カトリーヌ・ドヌーヴ)が"だんだん狂っていく"過程をじっくりと描写した。はじめからイカれているわけではない。このことは劇中で、放置されたジャガイモの芽がだんだん伸びていく様によって示唆されている。幻覚や幻聴のような症状が出るキッカケが、どうやら"男からの誘いや接触"らしいということが観客に伝わるまで数十分ほどかかる。つまり、ポランスキーはキャロルの狂気には原因があるという描写をしている。
ところが、その原因が femininity (歴史や伝統において女に相応しいとされること)であるならば、キャロルは女として生まれている以上、逃れられない鎖となる。これはキャロルが呆然と刺繍やアイロンがけをするシーンで強調されている。
こうしてキャロルは日増しに幻覚と幻聴に悩まされ、やがて言い寄る男や大家を殺害するに至るのだが、これが統合失調症だろうが何だろうが、精神病であることが問題なのではなく、ポランスキーは femininity とは何ぞやということをこの残酷なストーリーで問いかけている。キャロルの行動はこうしたことへの repulsion (嫌悪、あるいは反発)として描かれている。
一つの見方として、キャロルは幼少期に父親か誰かによって性的な虐待を受けていた可能性が思い浮かぶ。もちろん、そうしたことは劇中で一切触れられておらず、ただラストシーンに幼少期の家族写真と思しきカットが差し挟まれるだけである。この写真でキャロルは全く笑っていない。また、この映画のオープニングはキャロルの目のアップだった。何を経験してきたのか分からないものの、キャロルが何かを見た目が、劇中では現実と幻覚の間を行ったり来たりする。
この女の殺人犯という当時として珍しい設定を採用したことにより、ふつうの美人に見える主人公が狂う様を通してポランスキーは"世の中が個人に押し付けてくる圧力"を描写できた。つまり、この映画がそれまでのサイコ系と一線を画していたのは、狂っているのはこちらかあちらか、という余韻を残すからである。もちろん、ポップコーン気分で観ていると"美人が狂ってチャラ男を刺した話"にすぎないのだが、ジャガイモの芽であったり、部屋に放置されたウサギの肉などを通して、主人公が何らかの原因によってだんだん症状を強めていく様が分かるようになっている。
この映画を観て、キャロルの姉やキャロルに言い寄る大家は狂っていないと言えるだろうか。正確に言えば、正常さ、あるいは健常であることとは、みんなと同じように行動すること以上の意味がないのではないか。こうした視点は同時代の作家、ロアルド・ダールに通じるものがある。
さて、ユダヤ系であるポランスキー監督は幼い頃、両親とともに強制収容所に入れられ、母親をそこで亡くしている。この人にとって femininity ということは特別な意味があるのだと思う。また、この映画を撮った数年後に、妊娠していた妻をカルト教団に刺殺されている。その一方で、監督として成功してから未成年のモデルや女優などへの性的な暴行を幾度となく繰り返していたことが暴露された。
人間は綺麗事では済まない、ということを体現するようなロクデナシである。