ザンドラしか褒めるところがない / 「落下の解剖学」
ここ最近の映画がどんどん"くだらない"作品ばかりになっている大きな理由は、ビジネス優先の風潮が強くなったことと、LGナントカのような政治的なノリが過剰に持ち込まれているからだ。2023年のパルム・ドール受賞作「落下の解剖学」(原題は Anatomie d'une chute)も、ザンドラ・ヒュラー演じる主人公がバイセクシャルだということを言いたかっただけとしか思えない凡作である。カンヌ国際映画祭において"フランス人"の、"女の監督"が、"バイセクシャル"を描いたからといって、それらは映画のなかで展開される物語を面白くするものではない。ただし、ザンドラ・ヒュラーの演技も雰囲気も素晴らしかった。
前回の記事「クリムゾン・リバー」の舞台のすぐ近く、グルノーブル近郊の山荘で物語は始まる。作家のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)が夫のサミュエルと山荘で二人きりになった後、サミュエルが転落死している姿を散歩に出かけていた息子ダニエルが発見する。フランスの司法はサンドラを起訴し、裁判が始まると、サンドラの不貞や歪んだ夫婦関係が明るみに出るーー、という、ありきたりな話だ。主に裁判でのシーンが延々と続く。152分の映画だが90分に編集できるはずだ。
この映画の核となっているものは"言葉"である。サンドラという人物は演じているザンドラ・ヒュラー同様にドイツ人という設定であり、フランス人の夫や息子とは英語で話し、フランス語は時折会話のなかで単語を使う程度だ。裁判ではフランス語が使われ、息子の世話をしにくる女ともフランス語で会話せねばならず、サンドラにとってそのことがストレスであるよう描かれている。本作を日本語の吹替で観た人はこうした英語とフランス語の頻繁な入れ替えに全く気付かないのだから、"映像を観た"だけであり、映画を観たとは言えない。音声も音楽も映画の一部だからだ。言語の使い分けによってサンドラの"演技"が暴かれていく。
さて、法廷で夫サミュエルが録音していた夫婦の会話が明らかになるが、こうしたシーンは映画の観客もまた映画のなかの人物たちを"覗き見"しているようなものだということを示唆している。ただ、どうせ覗き見しているのだから、サンドラが犯行を犯したのか否か、それはハッキリさせておくべきだった。観客に委ねるという態度は、物語の放棄と表裏一体である。証拠がないのだからサンドラが無罪になることはほぼ確定であり、それならば私生活を法廷で暴かれたサンドラが本当に殺したのかどうか、劇中での法廷ではなく、映画の観客には伝えなければならない。152分もフランスの法廷劇を見せられて喜ぶのは、LGナントカに人気のありそうなザンドラ・ヒュラーのファンだけだろう。
しかしザンドラ・ヒュラーには独特の雰囲気があり、久しぶりにドイツ語圏から出てきた良い女優という印象である。ダイアン・クルーガーのようにこれから各国の映画で活躍しそうだ。テューリンゲン州で生まれ育った生粋の"東ドイツ人"である。
「落下の解剖学」がパルム・ドールを受賞した年のカンヌ国際映画祭には、ウェス・アンダーソン監督の「アステロイド・シティ」も参加していた。あの作品の方がよほどパルム・ドールに相応しい出来だったと思う。
最近は政治も映画も woke な連中ばかりが幅を利かせ、LGナントカだの、本質的ではないことばかり喚いて世の中をくだらないところに変えようとしている。およそ本質的でないことに一生懸命になれるということは一種の才能であり、言い換えると、何を"本質"だと捉えているかということがその人の個性あるいは知性と言える。少なくとも「落下の解剖学」を面白いと評する奴は、どうかしている。
しかし、おそらくそういう人に限って、日本語吹替で観ているものだ。