これは美しい愛の物語 / 「ブロークバック・マウンテン」
ヒラリー・クリントンが大統領選を争っていた頃、glass ceiling という単語が流行った。ガラス製の天井という意味で、要するにマイノリティや弱者が昇進する時に何らかの"見えない上限"があるだろうという指摘だ。もちろん、ヒラリーやカマラ・ハリスが敗退した理由は"女だから"ではないが、アン・リー監督の2005年の映画「ブロークバック・マウンテン」がアカデミー作品賞を逃した理由は"ホモだから"である。ずいぶん時が経ってから、ハリウッド・リポーターという雑誌がアカデミー会員に誌面上で再投票をお願いしたところ、この年の受賞作は「ブロークバック・マウンテン」だった。会員たちは、この映画が描いた愛のテーマに胸を打たれつつも、ホモの性行為をそのまま映したことに対して glass ceiling をつい設置してしまったということだ。それは人間らしいことであるし、誰を責めることもできないだろう。
僕は若い頃からホモに好かれやすく、女からも「ホモにモテそう」とよく言われる。それはなぜなのか自分では分からないが、生活しているなかで"こいつホモだろうな"と気付くことは多い。もちろん、僕は生まれた時から女が好きだし、小学生になると放課後は女の子とばかり遊んでいた。だから「ブロークバック・マウンテン」を観た時も、男同士の行為はもちろんのことキスのシーンでも目を背けてしまった。僕の根源が拒否している感覚だ。プーケットなどで男同士のカップルが手を握り合っていると、いつも視界に入らないようにしている。これを今日ではホモフォビアと呼ぶらしい。果たしてそうだろうか。
劇中でイニス(ヒース・レジャー)とジャック(ジェイク・ジレンホール)は、周囲からの偏見を避けるように、いわゆる忍ぶ愛を育んだ。これは男女でも様々の状況によって起こりうるだろう。「ロミオとジュリエット」の例を挙げてもいい。ところが、アメリカでは宗教という理由がここに加わる。同性愛とは罪なのだ。だから、イニスの父がホモの隣人を殺害したり、ジャックが羊飼いの仕事を失うことになった。気持ち悪いから、という気分だけの問題ではなく、罪なのだ。同性愛について語る時に、キリスト教やイスラム教の国の人たちと、いわゆるアジア圏では倫理の事情が異なる。だから今日でも、LGなんとかの人たちの権利云々という議論において、キリスト教の保守派から断固たる反対がなされるわけだし、それを理由にしてキリスト教から離脱した人も少なくない。
僕はホモを気持ち悪いと思うが、その人たちの結婚などを妨げることはアンフェアだと思う。つまり、僕が女を好きなように、男を好きな男もいるのであれば、勝手にすればいいし、お互いの自由を侵害しなければ良いだけだ。だからこそ、僕が「ホモは気持ち悪い」と"発言する自由"も保障されなければならない。現在のLGなんたらに欠けている議論はここである。映画「アメリカン・フィクション」はこの問題を取り上げていた。
嫌いだという発言そのものをヘイトだと断じるのであれば、そのヘイトという概念が言論弾圧につながるというロジックが理解できない low IQ が多すぎるのだ。多くの著名な作家たちが近頃のポリティカル・コレクトネスという名の言論弾圧を憂慮しているのに、残念ながら「ヘイトよ!」「傷ついたわ!」とわめく人たちはこちらの論理を把握する脳の余裕がないので議論にならない。傷ついたと言えば相手が黙るなんて、民主主義の否定である。どんな内容の事柄であっても発言する機会が侵害されてはならない。気に入らないなら反論すればいいのだ。
近頃の日本を考えてみてほしい。夫婦別姓などという、およそどうでもいいことが政治問題になっている。さっさと別姓を認めればいいし、こんなくだらないことがどうして家族の根幹に関わるのか理解に苦しむが、これもまた、同じ姓でなければ嫌だという意見の持ち主たちが権力の座にいるからだ。つまり、多数派、あるいは権力を持つ者は、自分たちと異なる意見の人たちの"自由"を奪ってはならないということが民主主義の基礎であるはずだ。映画「イージー・ライダー」で主人公たちを迫害した白人たちは、そうした多数派の暴力を代表していた。
「ブロークバック・マウンテン」は美しい愛の物語であり、100点満点でいえばほぼ100点だ。だからジャック・ニコルソンはアカデミー作品賞を発表する時に封筒を開いて、映画「クラッシュ」が受賞作だと公表する前に、マジかよ、というジェスチャーを思い切りしてみせた。あれは精一杯の抗議だった。ホモだからという理由で上限を設けてしまうことはアンフェアだ。
僕はホモは嫌いだと平気で口にするが、ホモの人たちのあらゆる権利と自由は保障されなければならないと考えている。それだけだ。みんな奇妙な単語を持ち出してきて物事を複雑にし過ぎている。文句があるなら反論すればいい。いったい何のために教育があるのか。傷ついたとわめくためなのか。公共の福祉という名の"ヘイト"を連呼する最高裁も含めて、もう少しこういうことを冷静に考えた方がいい。自由はあっという間に侵害されるものだと歴史が教えているだろう。
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