
戦争について語るときに僕の語ること / 「西部戦線異状なし」
You still think it's beautiful to die for your country. The first bombardment taught us better. When it comes to dying for country, it's better not to die at all.
(あなたはまだ国のために死ぬことが立派だとお考えなんですね。最初の爆撃によってもっと良いことを教わりました。国のために死ぬような目に遭ってみると、死なない方が良いってことが分かりました)
ドイツの古都に生まれたエーリヒ・マリア・レマルクは学生の時にドイツ軍に志願し、第一次世界大戦の西部戦線に送られ、帰国後にその経験をもとにした小説『西部戦線異状なし』(原題は Im Westen nichts Neues)を発表した。おそらくレマルクは主人公パウルに己の姿を投影しており、これは半ば自伝のような作品である。炸裂する轟音と銃弾のなかで、若き学生たちが生きることと国家のために戦うということの意義を見つめ直した本作は高く評価され、出版された翌年の1930年にユニバーサル映画が「All Quiet on the Western Front」として映画化した。本作は第3回アカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞している。もちろん、ナチスが政権を握るとレマルクは"愛国者ではない"とされ、著作は発禁となり、後にレマルクはドイツ国籍を剥奪された。過去や現在の日本列島を見ても分かるように、全体主義者にとっては政府を支持することが国を愛することと等しくなる。アホである。
さて、西部戦線をドイツの方から見つめた作品が「西部戦線異状なし」であり、これをフランスの方から、貴族と市民という二つの階級を通して描いた映画がジャン・ルノワール監督の1937年の「大いなる幻影」である。
こうした名作が戦争という事態を描くことで表現しているものは、よく巷でコピペのように言われている"戦争の悲惨さ"ではなく、なぜ市民が国家のために戦わねばならないのか、という最も政府にとって不都合な問題である。軍人だけが戦闘していたそれまでの戦争とは異なり、事態が"総力戦"の様相を呈していることは「大いなる幻想」においても言及されていた。日本でも首相直轄の総力戦研究所が「日本必敗」と結論づけていたことが知られている。
たとえば、現代の戦場がどれだけ悲惨なものであるかということは「プライベート・ライアン」などを観なくてもBBCニュースで毎日放送されている。それに、我が国の映画ライターや評論家たちが決まり文句のように"反戦映画"というバカな表現を好んでいるが、では戦争を推奨している映画を5本あげてみろと言いたくなる。戦時に制作された"戦意高揚"のための映画を除き、ほとんど全ての映画は戦争を厳しく批判している。反戦映画という言い回しは"甘いケーキ"と言っているようなものだ。戦争を描いた映画を観ている今日の有権者たちは、こういう事態を招かないために立法府や行政を厳しく批判していこう、ということが筋である。"戦争反対"と有権者が言えば戦争がなくなる訳ではない。戦争とは内閣が始めるものだ。このように、権力によってバカな事態を招くことを風刺した映画の代表格が、スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」である。
「西部戦線異状なし」では、ちっとも前進も後退もしないまま互いの兵士たちが死んでいくなか、パウルは塹壕のなかでフランス兵を刺し、死んでいく敵兵と一夜をともにしながら許しを乞う。劇中で何度か表現されていたように、ある国家と他の国家の政府が敵対したからといって、それは市民が他国の人間を憎むことを意味しない。ところがキャンプ内を彷徨くネズミをみんなで叩き殺すように、他国の市民を銃弾で殺害するか、あるいは殺害されてしまうことにどのような意味があるのか、ということをレマルクは問うている。そしてこの疑問こそがあらゆる政府の急所を突いている。原子爆弾を市民の頭上に投下しなくても日本は間も無く降伏するという理由により、米軍の高官の多くが投下に反対していたことは事実である。精神に疾患のある者を除いて、ほとんどの人間は他人を殺したくないのだ。殺される前に殺さねばならない、という戦場の論理がいかに人間の心を蝕んでしまうか、ということは「カジュアリティーズ」をはじめ多くの映画が語ってきたことだ。しかし、近衞内閣や東條内閣のようなバカの温床となったものは大政翼賛会(帝国議会)であり、ナチスや国家ファシスト党を支持したのもまた市民である。だからこそ、衆院選の投票率が5割程度の国のくせに、毎年広島で少女に"戦争を二度と起こしません"なんて言わせても仕方がないのだ。戦争反対だの、戦争の悲惨さだの、慣用句しか言えないような連中がつい先日まで政府と一緒になって"自粛"だの"県外に行かない"だの、みんなでファシズムしていた。この構図が相似であることに気付かない知性の方が問題である。
教師に扇動された生徒たちが歌を歌いながら教室を出ていくシーンがあるが、あの歌は「ラインの守り」(Die Wacht am Rhein)だ。プロイセン王国がフランスと戦争をする前に作曲され、ドイツでは愛国歌として親しまれていた。1942年の映画「カサブランカ」でドイツ兵たちが酒場で合唱していた歌である。「西部戦線異状なし」は1930年に制作されたので、アメリカにおいてドイツ軍を舞台にした映画が可能であったものの、「カサブランカ」は戦時中なので戦時情報局(OWI)の影響下にあったことは公然の秘密である。つまり、あらゆる政府はプロパガンダによって特定の国の市民を"敵"に仕立て上げるということだ。ロマン・ポランスキー監督はこれに異を唱えるように2002年に「戦場のピアニスト」を撮った。
大日本帝国海軍の尉官だった祖父は、いつも僕が帰省すると軍歌の流れている車でドライブに連れ出してくれた。職業軍人らしい奴だったと言って父親は嫌っていた。いっぽう、召集された大叔父は無事に帰還したものの廃人のようになってしまい、ある日行方不明になったきり二度と戻らなかった。戦争は市民を犠牲にし、その人生を台無しにしてしまう。天皇を筆頭にあの戦争によって200万人以上の死者を出したという事態の責任を誰がどのようにとったのか。東日本大震災という天災によって約2万人が死んで大騒ぎしているが、"人災"によって200万人以上が亡くなっているのだ。東條を含め数人が刑死して済むような話ではないのだが、こういう話からみんなで逃げ続けた結果、誰も責任を取らずに「申し訳ございません」と禿げた頭を下げておけば済む列島が出来上がった。
戦争を描いた映画を通して、有権者すなわち市民は今の政府と"どのように関わっているか"ということを考え直した方が良い。少なくとも"戦争の悲惨さ"とか"反戦のメッセージ"とか、そういう寝言を言っている奴は選挙にすら行っていない。戦争は有権者が始める訳ではないのだ。