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頭の中を管理されていますよ / 「トゥルーマン・ショー」

1998年のジム・キャリー主演の映画「トゥルーマン・ショー」ほど、様々の解釈ができるコメディも珍しい。生まれた時から人生の全てがリアリティ番組「トゥルーマン・ショー」として放送されているトゥルーマン・バーバンクの話だ。
トゥルーマンの住む島は巨大なセットであり、周囲の人たちは皆俳優である。父親の"死"によって海が怖くなったトゥルーマンは島でのんびり暮らしてきたのだが、自分の住む"世界"の奇妙さにだんだん気付いていき、ついにセットから抜け出そうと海へ漕ぎ出すーー、という話だ。
まず、この設定はトマス・モアの著作「ユートピア」から強い影響を受けている。今日の英語では utopia というと天国のような理想郷を意味する単語になっているが、もともとモアの描いたユートピアは徹底した管理社会である。つまり、本来の意味において utopia と dystopia はそれをどの価値観で見るかの違いによる。トゥルーマンにとってユートピアであるように、セットを組んで俳優を配役する人たちが管理したに過ぎないのだから、これはディストピアだと指摘してもあまり意味がない。なぜなら、ユートピアとはディストピアでもあり、言葉遊びにならぬよう言い換えると、こうした問題の焦点は"管理する"ことなのだ。
たとえば、近頃はネット社会であり、多くの人たちがデバイスを覗き込んで何かを書いたり"いいね"を付けたりしているが、こうして広い"世界"に開かれているようで、実は自分と同じような意見あるいは価値観の人たちに囲まれているに過ぎない、というエコーチェンバー現象が指摘されている。これは当たり前のことである。人は同じレベルの者としか一緒にいることができないという人間の真実がそこにあるだけだ。2024年の上半期映画ベスト10!などと書いている人のフォロワーは、同じようなレベルの記事を書いている人たちなのだ。では、映画の話から離れて、身の回りの情報ということに話を拡大してみると、ある人が読んでいる記事、あるいは興味を持った事柄とは、その人のレベルに合わせたものであるはずだ。パリ五輪の記事は読むが、ベイルートへの爆撃のニュースは読まない、のように、読者の知性によってその人の"世界"が限定されていく。「Jアラート」「拉致被害者」「飛沫感染」などと、この列島で盛んに取り上げられた単語は、そうした単語を流行させるように"管理"されていたことに気付かないから、いつまでもユートピアに暮らすトゥルーマンだらけの列島になったのだ。
「トゥルーマン・ショー」で番組プロデューサーを務めていたのは、クリストフ(Christof)、その名の通り、神である。こうした者あるいは政府与党のような組織によって、個人が肉体ではなく頭の中身を管理されていることが最も恐ろしいことなのだ。なぜなら、管理されているバカはその管理に気付かないからだ。こうして、人は同じレベルの者としか一緒にいることができなくなるのである。頭の中を自由にするためには知性が必要なのだ。そして多くの人は、知性というものは耳慣れない単語を使うことだと思う程度に頭が悪いので、そういう連中の寝言ブログが山のように量産され、そこに似たようなレベルの者が群がっているに過ぎない。
本作でトゥルーマンはセットを抜け出して行ったが、こうしてセットを抜け出した経験のある人は意外と少ない。自分の立場や価値観など、いくつもの"管理"から抜け出していくことで Truman は true man になるのだが、この映画の観客の大半は自分の頭の中身がセットの中にいることに気付いていないのだから、どこまでもブラック・コメディとも言える。

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