チャップリンの最高到達点 / 「殺人狂時代」
カミュの『異邦人』について前回の記事で触れたので、チャールズ・チャップリンの話をしたい。チャップリンが"アメリカの敵"となった1947年の映画「殺人狂時代」(原題は Monsieur Verdoux)は、まだ指摘している人を見かけたことがないものの、これは『異邦人』のチャップリン版である。なお、もはや毎度お馴染みと化してきたが、原題の Monsieur Verdoux は「ムッシュ・ヴェルドゥ」あるいは「ヴェルドゥ氏」と訳すべきだろう。松竹の洋画部は腹を切って詫びた上で即刻タイトルを差し替えていただきたい。
カミュが『異邦人』を発表した1942年の5年後、アメリカで"反米だ"などと糾弾されていたチャールズ・チャップリンは、フランスを舞台にして殺人を犯した男が監獄に送られ、そこで死刑を従容と受け入れる姿を描いた映画 Monsieur Verdoux を発表した。この筋書きの相似は偶然ではないだろう。『異邦人』はヨーロッパが信じている"理性"の支配を疑うものだったが、「殺人狂時代」はアメリカが信奉している"勝利"の正体を暴こうとしたものだった。
もちろん、ヴェルドゥ氏(チャールズ・チャップリン)が犯行に及んだり、あれこれと策を弄している様子はそれまでのチャップリンらしくコメディ満載で楽しく撮影されている。しかも、チャップリンは主人公ヴェルドゥ氏を倫理なき冷酷な殺人者として造形せず、毒を飲ませようとした恵まれない若い女が世の中を憂う姿を見て、犯行を思いとどまるという kindness (優しさ)を描写していた。この kindness という単語は劇中で何度か登場する本作のキーワードになっている。つまり、舞台はフランスであるものの、アメリカという国は勝利や金など成功の証を得るために、kindness を失っているという批判である。
奇しくも、助けた若い女が物語の終盤に金持ちとして登場するのだが、それは武器の製造業者の嫁になったからだと判明する。第二次世界大戦の前夜にヨーロッパを襲った恐慌や、それによってヴェルドゥ氏が資産を失うことなどが物語と上手く連動していて、これこそが"世情を反映した"映画である。非常に優れた脚本だ。
そしてムルソーのように監獄に入れられたヴェルドゥ氏は、"アメリカの敵"となった有名なセリフを語る。
そして最後の祈りに来た牧師に対し、神ではなく人との間に軋轢があるんだと語るヴェルドゥ氏は、ムルソーとはまた異なる形で理性や宗教というものの欺瞞を指摘した。本作は案の定、アメリカの観客には不評であり、チャップリンの映画であるにもかかわらず興行収入はひどい有様となった。当時は赤狩りが激しくなっていた時期であり、チャップリンがイギリスへの帰路につくとアメリカは再入国を禁止する処分を課した。アメリカとハリウッドはこの稀代のコメディアンに対して消すことのできない借りをつくってしまった。『異邦人』も「殺人狂時代」も、"みんな"の言っていることに対してアッカンベーをした作品であり、それこそがアートであるのだが、えてして"みんな"というものは"みんな"と異なる意見を嫌うものだ。なぜなら、バカだから異なる意見を吟味して反論したり、その一部に賛同したりする知性に欠けているからだ。それに、知性ある者はだいたい"みんな"に属していない。
僕は「殺人狂時代」がチャップリンの映画で最も優れた作品だと思う。チャップリン本人も本作をたいへん気に入っていたそうだ。ちなみに、フェデリコ・フェリーニ監督も「殺人狂時代」を好きな映画10本のうちの1作として選んでいる。コメディとして見せながら、世情を反映し、そして世間の主流派に中指を立てるという、映画としてこれ以上ないくらいの出来である。そもそも、いつの世でも、主流の価値観なんてものは後世にバカ扱いされるだけだと決まっている。だからこそ、映画や小説はアッカンベーをしないといけないのだ。