勝手にフランスしやがれ
ヨーロッパは大変狭いところだ。旅行したことがあるなら各都市の近さに気付いた人もいることだろう。いつもドイツあたりを中心に据えた「欧州地図」を見ていると、つい日本列島より遥かに大きな土地を想像してしまうが、パリとミュンヘンは直線で680km、羽田空港から広島の距離だし、パリからロンドンなんてたった340km、羽田空港から仙台へ行くに等しい。
よって、戦後のイタリアの映画界でネオレアリズモが隆盛になると、すぐに隣家へ飛び火する。フランスでは若い映画人たちが「昔ながらの手法で映画を撮らないもんね」と活躍し始めた。これがヌーヴェルヴァーグだ。さらに分かりやすく言えば、「おれたちも溝口健二みたいな映画を撮りたい」である。
さて、「西鶴一代女」(1952年)でヴェネツィア国際映画祭の国際賞、「雨月物語」(1953年)で同映画祭の銀獅子賞、「山椒大夫」(1954年)でさらに銀獅子賞を獲得した溝口健二であるが、今日どれだけの国民がその名を知っているだろうか。溝口の映画を観たことがないという人が大多数であろう。各シーンを長く、引きの構図でじっくり撮る手法が、ゴダールをはじめタルコフスキーやスコセッシなど、多くの映画監督に影響を与えた。
こういうことを書いていると、我が国の「文章の世界」で幅を利かせている仏文科の連中が「ヌーヴェルヴァーグはそういうことじゃなくてえええ」などと、得意の御託を述べてきそうだが、蓮實重彦をはじめ仏文科の出身者がこの列島にいかに駄文をばら撒いてきたか、その弊害たるや、映画評論などといってカタカナの珍妙な訳語を連発する悪習によく現れている。僕は一般の方に向けて専門用語を使ってドヤ顔するほど頭が悪くない。
黒澤明「羅生門」にせよ、溝口の主要な作品にせよ、どれも日本か中国の古典を題材にしている。じぶんたちの土壌から生まれたものは、その実がしっかりしているからこそ、他所の人たちにも伝わる威力がある。「鬼滅の刃」があれだけの大流行となった一因は、鬼という日本人にとって説明不要の悪を斬り捨てるだけの話だからだ。しかし、ほとんどのアニメはフリーレンだのルルーシュだの、横文字の登場人物を使いたがる。ちょうど「文章の界隈の人たち」がすぐにエクリチュールだのデコンストラクションなどと書き散らかすことと根本が同じである。表現の自由も人権も民主主義も、全て他所の土からやってきたのだから、ここになかなか根付かなくても不思議ではない。
今や、この列島の人たちは、じぶんたちの土壌を見失っているのではなかろうか。