これはムービーではなくアート / 「ベニスに死す」
若い頃から新潮文庫や岩波文庫で海外文学に親しんでいた僕は「ホモが多すぎるだろう」と訝しんでいた。それでもトーマス・マンの文学はずいぶん好きになり、主要な作品はほとんど読んだし、ドイツ語が読めるようになってから原書を買った作品もいくつかある。Der Tod in Venedig (ヴェニスに死す)も、なんだかすげぇ、という漠然とした感覚を抱いたまま何度か読み返した。ルキノ・ヴィスコンティ監督はこれをホモならではの目線から撮った映画「ベニスに死す」を1971年に発表し、一部の人たちから"マンの文学をただのホモ映画にしやがって"と怒られたそうだが、本作の耽美なノリといい、マーラーの交響曲をテーマ曲にしたことといい、僕は文学の映像化として最も成功している作品の一つだと思っている。それに、文字によって表現される美などが映像に翻訳できるなら世話はない。映像になることによって失われること(lost in translation)も多いが、しかし才能ある監督は原作の魅力を引き出すこともできるので、ヴィスコンティ監督の手腕を堪能できる映画である。なお、Venice という地名をベニスと表記することはやめた方が良い。
さて、本作はなんといっても、ヴィスコンティ監督がオーディションをして探し回ったというタジオ役の美少年、ビョルン・アンドレセンが有名になった。
僕は120%のヘテロなのでビョルンを見ても"女みたいな野郎だな"という感想しか抱かないが、こうした美少年に恋焦がれて陶酔してしまうグスタフを演じたダーク・ボガードの演技は見事だった。さすが、生涯の"パートナー"が男だっただけのことはある。
今日でも少年や少女への"愛"を語ればほぼ世界中で危険人物として扱われることは間違いないものの、そうした倫理を飛び越えたところにある愛や美はあるはずだし、世の中で許容されることのない"感情"を抱くことは決しておかしなことではないだろう。文学や絵画など芸術において、倫理という物差しをいちいち当て嵌めても仕方がないのだ。誰もが許容することだけを表現するなら、アートなんて不要になる。だから周囲の目線ばかり気にする日本人は芸術に親しんでいる人がほとんどいないのだ。"つまらん奴"ばかりである。
タジオの母を演じたのは、ヴィスコンティ監督やパゾリーニ監督の作品でお馴染みの美人女優、シルヴァーナ・マンガーノだ。最近書いた記事のなかでは、パゾリーニ監督の映画「テオレマ」で色情狂になる母を演じていた。
しかし本作を何よりも芸術に押し上げていたのは、ダーク・ボガードである。倒錯していく音楽家になりきっていたし、演技ではなく本気でビョルンを愛しているだろうと観客に思わせるだけの迫力があった。こうしたアートを撮ることができたのはヴィスコンティ監督のなせる業だろう。
主人公グスタフのモデルにしたというマーラーの交響曲5番も実に映画に合っている。僕の父親がよく聴いていた曲なので、子どもの頃から親しんでいる旋律だ。
映画「ベニスに死す」はアートである。倫理とか常識とか、そういうくだらないものを捨てて鑑賞するものだ。言い換えると、そうした通念の"くだらなさ"に気付いていない人こそ、くだらない奴なのだ。