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これはアート映画センター / 「赤い砂漠」
イタリア映画について書いたついでに、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の1964年の映画「赤い砂漠」(原題は Il deserto rosso)について記しておく。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した作品だが、こういうアート調の映画の記事はあまりアクセスされず、「ジョーカー」のような話題作や「フォレスト・ガンプ/一期一会」のような有名な作品について触れた記事が人気らしい。
ちなみに、世界三大映画祭と一部の界隈で呼ばれているカンヌ、ベルリン、ヴェネツィアの映画祭において、異なる3つの作品で最高賞をそれぞれ受賞したことがある監督は、アントニオーニとアルトマンだけである。アントニオーニ監督は本作の2年後に「欲望」でパルム・ドールを受賞している。
さて、「赤い砂漠」もまたパゾリーニ監督の「テオレマ」と同様に、あらすじを書くことにおそらく意味があまりない。主人公ジュリアーナ(モニカ・ヴィッティ)の不安定な心を近代化するイタリアの風景のなかで表現した、きわめてサイコな出来だからだ。ジュリアーナは交通事故に遭って以来、本人の弁によると"足が地面から浮いているような"感覚にずっと襲われ、周囲の人や物事とうまく接することができていない。もちろんこれはトラウマやPTSDのような話ではなく、そもそもジュリアーナ自身のなかに宿っている"存在の不安"であることが暗示される。自分の意識や考えていることが、世の中とうまく合致しないという孤独である。こうしたテーマは「欲望」でも描かれていた。
ジュリアーナは異国の船に乗ってどこかへ行こうとするものの、船員と言葉が通じず断念し、心が通っていると感じることができない息子の手を引いて、夫の経営する工場へ日々散歩に行く。このような居場所の無さに集中して撮った作品が「赤い砂漠」である。夫や、その友人コラド(リチャード・ハリス)など、周囲に優しい人たちがいるにもかかわらず、ジュリアーナの心には砂漠が広がっている。冒頭で労働者たちが社会主義のような話をしているインタビューが流れるが、そうした世の中を流通する言論が全て虚しいものであり、個人が抱える孤独はどうしようもない、ということが示唆されている。テレビも映画もどこか砂漠のようなものだ、という視点である。
パゾリーニ監督であれば抑圧された性こそが世の中の底にあると指摘するだろうが、アントニオーニ監督はそこに潜在する孤独を撮っていた。どちらの監督も、当時のイタリアで盛んだった社会運動のようなムーヴメントに対して"人間の本性が置き去りにされている"という態度が一致している。ちなみに、2人ともボローニャ大学を卒業している。人と世の中の両方を見つめる才能あるインテリたちである。
本作はアントニオーニ監督にとって初めてのカラー映画であり、いつも出演させていたモニカ・ヴィッティの美貌がよく分かる作品だ。こういう映画は完全にアートであり、あらすじがどうのとか、シーンの連続性がどうのとか、そういうことから抜け出ている作品なので、観客を選ぶものだろう。こういう映画が本当になくなってしまった。