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【超解説】 146分の走馬灯 / 「マルホランド・ドライブ」

ワールドトレードセンターのビルが解体された1ヶ月後、アメリカで画期的な映画が公開された。デヴィッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」だ。この映画を評する言葉は無数にある。サイコスリラー、シュルレアリスム、ミステリー、ラブストーリーなど、どのジャンルを指す単語も当て嵌まるようで、どれもすり抜けてしまう。ちょうど万華鏡の模様を言い表しがたいように、この作品はどんな言葉も弾き返すような、まさしくアートである。2016年に英国放送協会(BBC)が「21世紀になってからのベスト映画」をランキングしたのだが、「マルホランド・ドライブ」は1位に選ばれている。僕も同感だ。
これまで何度もリンチ監督に言及したかったのだが、どうしても「マルホランド・ドライブ」について話をしてから、と思って控えていた。いわゆるサイコ系と呼ばれる映画はこれまで、ヒッチコック監督「めまい」やポランスキー監督「反撥」あるいはアルトマン監督「イメージズ」などに代表されてきたが、21世紀に入ってすぐ、アルトマンに負けず劣らず奇人のリンチ監督が、本作でサイコ系の偉大なアップデートをしたと言っていい。
あらすじを紹介する必要がないことは観たことがある方ならお分かりだろう。本作はストーリーというより、いくつかの行動の断片、シーケンスが重ねられただけの作品だからだ。ハリウッドを通る山道のマルホランド・ドライブで自動車事故に遭い記憶を失ったリタ(ローラ・ハリング)と、カナダの田舎からロサンゼルスに出てきたベティ(ナオミ・ワッツ)の二人が登場し、物語が進行していくと思いきや、全く関係のなさそうなシーケンスに飛ぶ。時系列もヘッタクレもないまま、観客を置き去りにして進む146分の"映画"というよりもシーケンスの集合体は、その核がラストシーンで明かされる。いや、もっと正確に言えば、ラストシーンを観たことによって、そこで描かれたことを物語の核だと解釈することもできる、ということだ。
さっさと僕なりの結論を言うと、これは146分のダイアン(ナオミ・ワッツ)の走馬灯(life review)である。ハリウッドで女優になるという夢と、カミラ(ローラ・ハリング)との同性愛を成就させることが出来なかったダイアンが、自らの頭を撃ち抜いてから心中に去来したものをシーケンスとして並べている。つまり、この映画はラストシーンの次のシーンが映画の冒頭になる。
ダイアンはレビューの中では清楚で前向きなベティとなり、愛するリタすなわちカミラと関係を深めていく。ところが、実際のカミラはイタリア系と思しきマフィアの金と権力によって主演の座をつかみ、映画監督と結婚するに至る上に、ダイアン以外の女とも寝ていたことが劇中のシーンから分かる、ようなシーンが挿入されている。言わば、この映画は全てのシーケンスが"信用できない"ものだ。
傷付いたダイアンがヒットマンにカミラの暗殺を依頼するシーンや、成功の合図である青い鍵がテーブルの上に置かれているシーンも挿入されているが、これらのシーンは果たしてどこまでが実際に起きたこと(reality)なのか、その解釈は観客に委ねられている。しかし、そもそも本作において、どのシーンが「現実」でどれが「夢」なのかといった映画ブログでよく見かける"解説"はあまり意味がない。なぜなら、こうした構成をとっている以上、全ては回想と考えて構わないからだ。ダイアンがベティに変わっていたり、部屋の世話をしてくれるココが映画監督の母親として登場したり、ダイアンが人生で出会った人たちが"他の役"をこなしているのだから、現実と夢という区分ではなく、全ては臨死体験あるいはライフレビューだと受け止めた方が辻褄があう。
つまり、この映画のあらゆるシーケンス、リタとベティに関係なさそうなものも含めて、全てはダイアンが人生で出会った人たちによる"劇"と言える。シーケンスによって真実味のあるものとそうでないものに分かれるだけだ。おそらく、映画のラストシーンに近付くにつれて実際に起きたことの濃度が濃くなっている。デタラメがどんどん真実に迫っていき、頭を撃ち抜いたことによって先頭のデタラメに戻るという仕組みだ。
なぜなら、ラストシーンの直前、少し長めにダイアンの壮絶なオナニーのシーンが挿入されている。これは失恋したダイアンの"真実"の姿だろう。僕の知る限り、ハリウッド映画で最も印象に残る女のオナニーである。ちなみに、ナオミ・ワッツはハリウッドで端役ばかりの下積み生活を続けていたのだが、本作によって一気に女優として成功した。
さて、観客が自由に解釈してほしいという意図によって、リンチ監督は「マルホランド・ドライブ」に関するコメントを拒否している。ここまで完成されたシーケンスの集合体を撮ることができたら、解釈は好きなだけ出来る。劇中でリタがベティそっくりのウィッグをつけて喜ぶシーンは1966年のイングマール・ベルイマン監督「仮面/ペルソナ」のオマージュだろう。先行するサイコホラー映画を参照しつつ、しかしそれらを一気に飛躍させたと言える。なぜなら、この映画は全てが実際に起きたことではないとも解釈できるからだ。どのようにも解釈できるように各シーケンスを調整したリンチ監督の手腕には脱帽するしかない。きっと脚本のためのノートには細かい文字がびっしりと書き込まれていることだろう。
映画という絵空事のなかで、真実と夢という区分けに意味があるのか、というアルトマンからの宿題に見事に答えた作品でもある。多くの観客がいつまでも「これは現実なのか」と言っているのだから、きっとアルトマンやリンチはこう答えるに違いない。
「これ、映画なのよ」

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