自由の国じゃなかったっけ / 「イージー・ライダー」
ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソンの3人を一気にスターダムへと押し上げた映画が、1969年の映画「イージー・ライダー」だ。この頃のハリウッドは New Hollywood の気運が高まっていて、本作の2年前に「白昼の幻想」という映画で出会った3人が意気投合し、製作費40万ドル弱であっという間に完成させた作品である。スタッフの宿泊費や飲食代は全てピーター・フォンダのクレジットカードで支払ったという。それが今では New Hollywood の代名詞だ。だいたい、良い映画ほど製作費は大してかかっていない。
New Hollywood と呼ばれるアメリカの新しい映画とは、要するにカウンターカルチャーだ。ベトナム戦争にうんざりし、ヒッピーたちが街を往来してドラッグや新興宗教にハマり、既存の価値が揺らぎ始めた時代に、映画もそれまでの西部劇やフィルム・ノワールなど、お約束の展開なんてやめてしまおうというムーヴメントである。「イージー・ライダー」の同期に当たる映画といえば「真夜中のカーボーイ」や「明日に向って撃て!」だ。1969年、つまりニクソンが大統領になった年に New Hollywood はアクセル全開になった。
物語は至ってシンプルだ。主人公のキャプテン・アメリカ(ピーター・フォンダ)とビリー(デニス・ホッパー)がコカインの密輸で大金を得たものの、行くあてもなくとりあえずマルディグラ(カーニバル)の行われるニューオーリンズを目指してバイクの旅に出る。道中でカトリック信者やヒッピーたち、弁護士のジョージ(ジャック・ニコルソン)らに出会いながら旅を続けるのだが、やがて3人は自分たちのような存在が世の中で歓迎されていないことに気付くのだったーー。
カウンターカルチャーとは既成の価値に対抗するものだから、ヒッピーたちのフリーラブやドラッグ、あるいはコミューンのような生活様式は、それら全てが古いアメリカにとって受け入れがたいものだった。なぜなら、生活あるいは慣習とは宗教すなわちキリスト教と切り離せないものである以上、ビリーたちのような者は白人たちの目にアンチキリストとして映るからだ。劇中でも、フレンチ・クオーターの墓地/教会において、売春婦を連れてLSDをキメてセックスするシーンが挿入されていた。この頃のアメリカには信仰心の薄れた人たちが登場し、今日の"分断されたアメリカ"(divided America)の萌芽となった。
映画のなかでロックを次々と流したことも当時は珍しかった。とにかく新しいことをやってみようという若手俳優たちの勢いが、アメリカの観客たちにも広く受け入れられたわけである。もちろん、劇中で主人公たちを迫害した人物がいたように、こうした映画、あるいは世の中の変化が気に入らない人たちも大勢いたし、本作はそうした人たちを"老害"だと批判する内容なのだが、こうした批判がきちんとアカデミー賞にノミネートされるあたりがアメリカの"自由"でもある。
劇中でも"みんなは自由を口にするが本当の自由なんていらないんだ"と登場人物に語らせていたし、弁護士ジョージはACLU(アメリカ自由人権協会)にかかわっていると示唆するセリフがあった。こういう映画を通して、みんなで自由について考えてくれというメッセージである。
ちなみに、本作で脚本を手がけたテリー・サザーンは、ピーター・セラーズがサザーンの書いた小説を気に入って「博士の異常な愛情」の脚本家として参加させた人物である。優秀な人物は、優秀な人物を釣り上げるという好例だ。こういう抜擢が気に入らない国民性だから、日本ではあらゆる組織が年功序列なのである。だからあらゆる分野において、まるで結果の出ない数十年を過ごしているのだ。
「イージー・ライダー」はアメリカにあらためて"自由"の意味を問うた。果たして日本人は戦後このかた、自由について考えたことがあるのだろうか。そんなものは別に必要ないからこそ、考えてもいないのだろう。