![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/153236615/rectangle_large_type_2_f6d95355024e61ee0e559addd7938f73.jpeg?width=1200)
フランス映画がダメになったワケ / 「イルマ・ヴェップ」
なぜ、フランス映画はダメになったのか。その問いに答えようとしたフランス映画が1996年の「イルマ・ヴェップ」だ。この映画は、1915年から翌年にかけて制作されたルイ・フイヤード監督のサイレントの活劇「レ・ヴァンピール 吸血ギャング団」を下敷きにしている。この作品を簡潔に言えば、タイトな衣装を着た女の盗賊の活劇である。この盗賊のイメージが、観客と後世の映画監督に鮮烈な印象を与えた。ヒッチコック監督からキャットウーマンに至るまで、サイレント映画の女の主人公イルマ・ヴェップの影響は絶大である。耳慣れない Irma Vep とは、vampire のアナグラムだ。
さて、オリヴィエ・アサヤス監督の1996年の映画に話を戻す。フランス人映画監督のレネが、この「レ・ヴァンピール 吸血ギャング団」の現代版を撮ろうとするところから話が始まる。主演に選ばれた女優は、張曼玉(マギー・チャン)だ。張曼玉は本作に"本人"として出演している。衣装担当のゾエに連れられてラテックス製のキャットスーツを試着し、張曼玉は役も衣装も気に入る。ところが、制作現場はスタッフたちが揉めてばかりで、監督も出来にイライラしているのか、未編集のテープ(ラッシュ)を観ると怒鳴ってどこかへ行ってしまう。張曼玉は監督の家を訪ね、とても役を気に入っていること、監督の目指すものは実現できそうだと語るものの、監督は仕上がりに不満なのだと言う。鎮静剤を飲んで眠る監督の家からホテルに戻ると、張曼玉はキャットスーツを着て人目に付かぬようホテルを徘徊し、ある部屋に侵入して宝石を盗む。
翌朝、キャットスーツを着たまま眠った張曼玉はゾエに起こされて撮影現場に行くものの、レネは療養施設に入ったので来ないと告げられ、レネ無しで撮影が進められる。その日の夜、代役の監督ホセはフランス人女優を呼び出し、中国人がイルマ・ヴェップを演じることは受け入れられないので主役を君に替えると告げる。
撮影スタッフたちはレネが療養施設に入ったと思っていたものの、張曼玉はパリ近郊で監督に会っていたことを明かし、リドリー・スコットに会う予定があるからとニューヨークへ旅立ってしまう。レネが少しだけ編集していたラッシュをスタッフたちが観てみると、そこにはアニメーションのような手が加えられた張曼玉だけが映っていたーー。
この映画は、とても多くの情報を含んでいる。まず、制作現場を撮りつつ劇中劇を扱うという手法は、ロバート・アルトマン監督の「ザ・プレイヤー」と共通している。この劇中劇というテーマや、張曼玉が本人として出演していることは、難しい言葉で表現すると"自己言及"(self-reference)である。つまり、本当はスクリーンの中は全て演技であるはずなのに、どこまでが演技なのか分からなくなるという効果がある。こうすることで、フランス映画の制作現場をより"本物らしく"見せることができる。
そして、その現場とは多くのスタッフたちが勝手な言い分ばかり述べて、喧嘩が絶えないところとして描かれている。張曼玉をインタビューした記者が、フランスにはジャン=クロード・ヴァン・ダムの出演作のような映画がもっと必要であり、インテリ向けの映画ばかりだと不満を述べていたが、これは資本主義のなかで映画産業を続けていくならば必要な指摘である。張曼玉はこの意見に反対し、劇中でレネが作ろうとしていたアートのような作品に関わりたい姿勢を示していた。
劇中で何度も、アメリカ映画は衣装やセットが過剰な金まみれの駄作だと登場人物たちに言わせていたが、それはアートを作る側の意見として正しい。僕もアートを観たい方だ。
本作は張曼玉が役を気に入り、とても良い映画が出来そうだったのに、自論にこだわりすぎる監督と、流れ作業のように撮影したいスタッフと、そしてフランス人にありがちな人種差別によって、お蔵入りとなってしまった。これが、アサヤス監督が批判する現代のフランス映画の姿なのだ。劇中で張曼玉は監督のレネと個人的に会っていたので、きっと監督にとってのイルマ・ヴェップは理想に過ぎたものであること、しかし張曼玉がイルマの姿をしてカメラの前に立ってくれたことで、監督の中で「イルマ・ヴェップ」は区切りがついたことは察したのだろう。リドリー・スコットと話があるという設定には笑ってしまった。
映画という大勢の人が関わるものを制作するということは、どこかで妥協が必要なものだ。キューブリック監督はそれを嫌がり、製作から脚本まで自分で手がけるようになった。しかし、ほとんどの映画監督はそういうわけにはいかない。
ちなみに、本作は2022年にHBOでテレビのミニドラマ化されている。