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黒澤明「夢」は夢だから

「映画のブログなんてどれもつまらないから、あなた書いたら?」
そう言われる時まで、まさか映画についてnoteを書き始めるとは思いもよらなかった。少なくともここ20年くらいの間、知り合いなどから「好きな映画は?」と訊かれると、決まり文句のように「黒澤明の夢」と答えている。
狐の嫁入りや小隊の亡霊など鮮烈なシーンが多いが、僕にとって「夢」という映画は「人生も物語も全て夢」ということを再認識させてくれる。これは一種の宗教観じみたものかもしれない。色即是空という響きがある。映画の中の各話が次へと移り変わるように、一切がどこかへと雲散霧消していく。
初めて観た時は、水車のある村のシーンが印象に残ったのだが、後に東京で友人になった男は、そのシーンを撮影した所のすぐ近所が実家だった。
「夢はどういうところが良いの?」と訊かれて「夢だから」と正直に答えるとバカにしていると思われるので「いくつかの話を合わせて出来上がっているけど、どのシーンも綺麗な映像で圧倒されるんだ」等々と返事している。僕にとっては第1話の「日照り雨」から第8話「水車のある村」までがまるでワンセット、同じ事柄について8つの角度から撮った作品のように感じられる。これは僕の好きな「雨月物語」という古典にも共通していることだ。白峯から貧福論までの各篇が幽玄を反射するように並んでいる。
黒澤明は「羅生門」で殺人事件を巡って複数の人間の証言が食い違う様を描いたが、この「夢」もまた、あるものを巡って黒澤明が8通りの撮影をした、と思っている。あるもの、すなわち夢、すなわち人生である。

ここからは余談になるが、フェデリコ・フェリーニ監督は「8 1/2」の終盤、フェリーニ本人を投影していると思われる主人公グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)にこう語らせた。
「È una festa la vita, viviamola insieme」(人生は祭りだ、一緒に過ごそう)
この台詞は般若心経がピザとパスタを食べたら出てきそうだ。夢も祭りも同じことを指しているのだ。

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