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どこまでもフランス的 / 「軽蔑」
僕はジャン=リュック・ゴダール監督を"新しさにこだわるあまり形而上学を始めてしまった男"としてあまり評価していないのだが、1963年の映画「軽蔑」(原題は Le Mépris)はよく出来た映画だ。また、これがゴダール監督の"限界"だったとよく分かる。
本作がゴダール監督の作品のなかで少し異質なトーンを帯びている大きな理由は、原作がイタリアの著名な作家アルベルト・モラヴィアの小説 Il disprezzo であることだ。モラヴィアは著作がいくつか映画化されており、最近の記事でいえばベルナルド・ベルトルッチ監督の「暗殺の森」の原作 Il conformista もモラヴィアの手によるものだ。
それゆえ、と言うべきか、この映画を"ちゃんと観る"ためには『オデュッセイア』の知識が必要になる。当時のヨーロッパで映画を楽しんでいた人たちにとっては常識レベルかもしれないが、おそらく日本人でちゃんと筋書きを把握している人はほとんどいないだろう。以前に要約を記事にしておいたので興味のある方は参考にしてほしい。
さて、本作はチネチッタ(ローマ郊外の撮影所)で幕を開ける。主人公のポールはフランス人の脚本家であり、不遜なアメリカ人の映画プロデューサーであるジェリーからある映画の脚本の書き直しを頼まれる。それがフリッツ・ラング監督が劇中で撮影している「オデュッセイア」だった。前回の記事「M」を監督したフリッツ・ラング監督は本作に本人として出演している。
舞台はイタリアであり、ポールがフランス人、ジェリーはアメリカ人、そして皆の通訳も務めているジェリーの秘書フランチェスカはイタリア人だ。したがって本作はフランス語を中心にしつつ英語とイタリア語が飛び交う。意思の疎通がしにくい状況を設定し、それによって本作は登場人物たちが互いに接点を持てないような、居心地の悪い孤独が支配している空間として撮影されている。
そしてポールは妻のカミーユ(ブリジット・バルドー)が急に冷たい態度になったことに戸惑い、妻の愛を取り戻そうとするも、"あなたを軽蔑するわ"と突き放されてしまう。この妻の変節に困惑しているポールの姿が本作の主題となっている。
ポールが『オデュッセイア』の解釈をラング監督に披露するシーンは、カミーユとの関係が投影されている。すなわち、ユリシーズは妻との関係がギクシャクしていたからトロイア戦争へ出征し、留守中に妻に求婚していた連中を"ライバルにもなっていない"と判断して放置したら妻からの愛が冷めたため、求婚者たちを殺すしかなくなったーー。
ところが、こうしたことをグダグダと早口で話していることがそもそも"フランス的"であり、なぜ劇中の無口なカミーユのように、静かなアートとして撮影できなかったのか、と指摘したくなる。ゴダール監督の映画はとにかくモノローグもダイアログも多すぎるのだ。まるで何かを言い訳し続けているモテない男である。誤解を恐れずに言えば、女心とは男にとって複雑怪奇(©︎平沼騏一郎)なのだから、ジェリーとの仕事のためにカミーユを利用しているように思われたのかもしれないし、ジェリーと二人きりになることについてもっと嫉妬しろという不満かもしれないし、あるいはこの物語以前からの積もり積もった不平かもしれない。あるいはどれも特に当たらないのかもしれないので、ポールのように"なんで?なんで?"という態度では軽蔑されても仕方がないだろう。
このように、フランス的、あまりにフランス的に男女の関係を描写する一方で、フリッツ・ラング監督を起用したように、本作は映画というメディアが商業と化していることを批判している。奇しくも、同じ年の2月に映画監督を主人公にしたフェデリコ・フェリーニ監督の映画「8½」が公開されている。(軽蔑は10月公開)
ラング監督は当時もはや映画を撮影しておらず、事実上引退している(させられている)状態だった。映画プロデューサーたちによって"もっと分かりやすく"ということを強いられている映画監督の苦悩が吐露されている。要するに"アートはいらない"という風潮が強くなってきた時代だったのだ。ラング監督がシネマスコープ(今日見慣れている横長の画面比率)のことを"観客のためじゃない、ヘビと葬式のためだ"と言ったセリフには笑ってしまった。また、ベルトルト・ブレヒトについてラング監督が言及する時に B. B. と表現したことは、もちろんブリジット・バルドーの愛称を指している"第四の壁破り"だ。
ただ、やはりこうしたテーマの映画はイタリア人の方が向いている。ゴダール監督はモニカ・ヴィッティに本作のカミーユ役を頼みに行ったものの、まるで興味がないようにあしらわれて帰国したという。ミケランジェロ・アントニオーニ監督と二人三脚で「情事」(1960年)や「夜」(1961年)、「太陽はひとりぼっち」(1962年)に出演していたヴィッティに頼むということは、ゴダール監督もあのような愛というものに潜む孤独を撮りたかったのだろうと察するが、それならば会話は半分以下にしなければならない。ブリジット・バルドーはとても良い雰囲気だったものの、主人公ポールがどこまでも"フランス的"なので、肝心のテーマがぼやけてしまっている。ちなみに、ゴダール監督の話の最中に"窓の外を見ていた"というモニカ・ヴィッティは、本作の翌年に再びアントニオーニ監督の「赤い砂漠」で主演した。きっとモニカはゴダール監督のことを"頭でっかちでハートがない"と感じたのではないかと僕は推測している。
決して「軽蔑」は凡作ではないし、ゴダール監督の作品のなかではうまくまとまった映画であり、随所に遊び心もあるものの、やはりフランス的なのだ。会話とは所詮言葉に過ぎない。スクリーンを観ているだけで何かを感じてしまうようなアートの方が僕は好きだ。しかし日本ではアントニオーニ監督よりも圧倒的にゴダール監督の方が有名なのは、仏文科の連中のせいというよりも、そもそもラング監督たちも仕事場を失ったように、アートを求めている人は少ないという事実によるのだろう。