他人のすること/じぶんの生活 / 「ミザリー」
さて、ホラー映画でもなく、恋愛映画でもない作品の中で、最も数多く撮られているのはスリラー(thriller)だろう。日本では"サスペンス"という言い回しがよく使われているが、欧米では犯罪系や探偵モノ、あるいは興奮や不安を煽るような映画は全てスリラーと呼ばれている。このジャンルの中に法律スリラーであったり心理スリラーなどがぶらさがっている分類が今日では一般的である。
1990年の映画「ミザリー」はスリラーの傑作である。スティーヴン・キングが1987年に発表した小説の映画化であり、主演のキャシー・ベイツはアカデミー主演女優賞を受賞した。
あらすじはシンプルだ。ミザリーという名の主人公が登場する人気のロマンス小説シリーズの著者、ポール・シェルダン(ジェームズ・カーン)が雪道で事故を起こし、重傷を負うところから始まる。ポールを助けた元看護婦のアニー(キャシー・ベイツ)はミザリーのシリーズの大ファンであるといい、自宅で献身的に介護をし始めるのだが、やがてポールの書いた最新作を読んだアニーは、結末が気に入らないと言い出し、原稿を燃やせと強要してくる。ポールは脱走しようと画策するもアニーに金槌で両脚を粉砕され、ポールを探しにきた保安官もアニーに射殺される。ポールは、アニーの望むような結末を書き上げたと言って喜ばせておき、アニーの目の前で原稿を焼く。2人は乱闘の末に、ポールは辛くも生還するーー。
前々回のnoteでも正常/狂気ということについて書いたが、このアニーの狂気の沙汰は、"ファン心理"と呼ばれるものと同一である。好きな芸能人の恋人のインスタグラムなどに罵詈雑言をコメントする人はアニーと何も変わらない。つまり、君には関係がない、ということが見えていない知能の人がそれなりにいるということだ。たとえば、阪神タイガースのファンがいたとして、今日の試合に負けて悔しい、これは"正常"なファンである。ところが、僕の通っていた中学校の理科教師は、阪神タイガースの調子が悪いとチョークを投げたり急に怒声をあげる男だった。当時の僕は、こいつは完全にキチガイだ、と慄いていた。こういうバカが中学校の教師をしているという事実よりも、キチガイはすぐ隣で涼しい顔をして生活しているという"見えにくさ"の方が僕の興味を引いた。ミザリーが小説の中で死ぬことも、阪神タイガースが勝っても負けても、観客の人生には特別の関係もないのだが、他人のすること/じぶんの生活という線の位置がおかしい人間は少なくない。キングは人気作家ゆえ、ファン心理の恐ろしさをよく知っているからこそ書けた作品だろう。
すなわち、他人に価値観や行動を押し付けようとしてばかりの者や、他人の言動をいちいち真に受けて悩んでばかりの人物は知能が低いだけである。そして、この世の中は大して知能がなくても生きていけるので、中学校教師にも首相にもなることができる。
さて、こうして最近noteで狂気について話すことが多いように、映画や小説というメディアを通して我々が学ぶべきことは、隣に立っている人、そこら辺にいるような"普通"の人たちこそが、本当に恐ろしい、自分にとって理解に苦しむ存在なのだということだ。それに気付かない限り、世の中を誤解したまま、アニーのように生きていくことと変わらない。
だから、当たり前のように使用される単語ではあるが、"普通"ということが最も危ない感覚なのだ。