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イタリアの伝統からの冒険 / 「情事」
ナチスやパルチザンたちが大騒ぎしていたイタリアが共和制に移行し、しばらく経つと"ぐーたら"たちが街を闊歩していた、ということを撮った映画がフェデリコ・フェリーニ監督の1953年の映画「青春群像」だという話は数日前に書いた。
そしてこの映画からさらに数年後、ルキノ・ヴィスコンティ監督はネオレアリズモの総決算と言える「若者のすべて」を1960年に発表した。この映画で描かれたように、まだ発展の途上とはいえミラノには豊かな暮らしをしている人たちが出現していたことによって、主人公たちパロンディ家の貧しさが際立っていた。
それゆえ、「若者のすべて」と同期に当たる1960年にフェデリコ・フェリーニ監督はネオレアリズモの手法から離れて「甘い生活」を発表し、都市の豊かな生活のなかで道徳が退廃していることとカトリックについての寓話を描いたのだ。
さて、以上のような戦後のイタリアのアートにおいて、ミケランジェロ・アントニオーニ監督は「若者のすべて」と「甘い生活」と同じ1960年に、イタリアの道徳や価値観が変わったということに焦点を当てつつ、人間のどうしようもない孤独を独特の映像で描いた作品「情事」(原題は L'avventura)を発表した。それまでテレビドラマや映画の端役をしていたモニカ・ヴィッティは、本作で主演したことによりヨーロッパで瞬く間にスターとなった。ジャン=リュック・ゴダール監督が「軽蔑」に主演してくれるよう頼んでいる時に"窓の外を見ていた"のはこの数年後のことである。
「情事」ではイタリアで様々のことが変わったこと(ズレていること)がテーマになっている。まず世代のズレとして、冒頭でアンナが父親と結婚について話をするも、結婚ということに対する意識が父と娘の間で異なることが示される。イタリア王国で長く暮らしてきた父と、イタリア共和国で育った娘の人生観が異なることは自然なことであり、これは小津安二郎監督の「東京物語」などで描かれたことと同じである。時の流れだけではなく、戦争という断絶がここにある。
アンナは親友のクラウディア(モニカ・ヴィッティ)と、恋人のサンドロを連れて金持ちの友人たちとエオリア諸島(シチリアの北に浮かぶ島々)へクルージングに出かけるのだが、ここでサンドロという男が"ズレている"ことが明示される。「青春群像」のファウストや、「若者のすべて」のシモーネ、「甘い生活」のマルチェロのように、熱心に愛を囁くわけではなく、どこか心ここに有らずといった態度であり、それゆえにアンナはクラウディアに不満を述べていた。
ここでアンナが姿を消してしまうことが本作の核となっている。これは、戦後のイタリア人すなわち新しいイタリア(共和国)において、人と人の関係が資本によって希薄になっていることの表れだろう。だから金持ちのクルージングのシーンなのだ。言い換えると、アンナのようにスッと姿を消しても数日後には"何も起きなかった"ような生活が、戦場ではなく豊かな暮らしにおいても始まっているということだ。こうした希薄な、つまり人が生きていく上で"存在の耐えられない軽さ"が露呈してしまうような世の中をアントニオーニ監督は表現しようとしている。ゆえにリスカ・ビアンカ島において、カメラはほとんど登場人物たちを中心にとらえず、あくまでも島に転がる岩や海を撮っているついでに映りこんでいるように撮影されている。ここで浮かび上がるものは、人間が常に抱えている孤独である。それはファウストやマルチェロももちろん持っていたものだが、アントニオーニ監督はその孤独に焦点を当て、そもそも我々が他人と関わるということ自体がどこか"ズレている"ものじゃないかという目線で撮っている。難しい表現をすれば、世界内存在(In-der-Welt-sein)であるとしても、その世界との関わりが見出せないような、たえず穴に落ちていく途上のような表現である。こうした視点はカミュやサルトルに近いものだ。
そしてクラウディアとサンドロは互いに魅かれつつ、カトリックの教義と己の感情が"ズレている"ことを自覚する。これはもちろんイタリアの慣習ともズレていることを意味する。クラウディアはサンドロからの誘惑を拒否しつつ、しかしサンドロとの関係を拒絶することはできない。パゾリーニ監督なら"ヤッチまいなヨ"と言いそうな状況でも、クラウディアは逡巡する。それが教義であり秩序であったからだ。サンドロはヤリチンでありながらも、ファウストやマルチェロのように熱心に愛を囁くこともしないので、それが余計にクラウディアにとっては"ズレている"ように感じられただろう。新しいイタリアの男はどこか虚しさを抱えたヤリチンであり、女はそこに誠意や誠実を見出すことが困難であるばかりか、そもそもみんな孤独なものだという哲学のレンズによって撮られている。
だから本作の題名は L'avventura すなわち「冒険」なのだ。アンナを探したことも、サンドロの誘いに乗ることも、本作で描かれた様々のことは伝統あるイタリアの風習や宗教からの冒険に当たる行為だからだ。これを情事と訳すことは誤訳ではないものの限定しすぎである。素直に「冒険」と訳せば良い。
とても良い映画なので、詳しく書くと記事が長くなって面倒くさいのでこのへんで済ませることにする。僕は好きな映画を50作選ぶとすれば、本作は必ず入るだろう。モニカが美しいことは言うまでもない。