砂漠の中心で愛を叫ぶ / 「シェルタリング・スカイ」
1987年の映画「ラストエンペラー」で一世を風靡したベルナルド・ベルトルッチ監督は、その3年後に「シェルタリング・スカイ」を発表する。前作に引き続き坂本龍一を音楽の担当として迎え、ある男女の愛と別れを描いたのだが、こんなに"大人向け"の映画も珍しいだろう。
舞台は1947年、ニューヨークからフランス領アルジェリアの港に着いたポート(ジョン・マルコヴィッチ)とその妻キット、そしてタナーの3人が、そこからバスや車でアルジェリア内を観光しつつ、物語が始まる。ポートとキットの夫妻はこの旅行を通じて互いの"倦怠期"を解決したいと考えているのだが、しかしキットはタナーとイチャイチャし始め、ポートはそのことに気付きながら売春婦と寝たりする。やがてポートは妻と二人で旅行すべくタナーを他の街の観光に行かせ、その隙に妻を連れて砂漠の奥へと向かうのだがーー。
という設定からピンと来る方がいるかもしれないが、これは小説「闇の奥」に近い。原作の同名の小説は1949年に発表されていて、これは実存主義がブームだった頃だ。それに、フランス領アルジェリアとはアルベール・カミュの出身地である。西洋からやってきた旅行者が異なる文化に触れ、アイデンティティの土台が崩れるような体験のなかで、一人の男として妻をあらためて見つめるという、自己を構成するものを剥ぎ取るという当時流行っていたモチーフが如実に現れている。
砂漠の奥で腸チフスを患い、死の床においてポートはキットを"愛している"と、劇中で初めて口にする。これが朦朧とした意識のもとの発言であることはさておき、倦怠期を克服したと思ったら死んでしまったというところが小説あるいは映画のなせるわざである。倦怠期などという状態に陥るくらいなら、その前に話し合えばいいだろうと僕は思うのだが、高倉健のように突っ立っているだけの男が意外と多いのかもしれない。いわば「結婚の闇の奥」である。
ここから映画の後半はキットによる傷心の旅が始まるのだが、そこでもキットはキャラバンの男と寝ちゃったり、もう少し考えて行動したまえとしか言いようがないのだが、これは映画である。結局暴漢たちにも襲われ、大使館の職員にタナーのところへ連れて行かれるものの、キットは逃げ出してしまう。つまり、"キット"であることを止めたわけだ。ポートは砂漠の奥でキットを愛していることを知り、キットはポートを失ってみれば、もうキットであることに意味を見出せなくなった。
つまり、我々がふだんどれだけ習慣や記憶、友人、職場など、およそ生存にあまり関係がない事柄だけによって、自分というものを構築しているか、ということが描かれている。キットは tourist から traveler に変わった訳である。
分かりやすく言えば、noteの自己紹介の欄に書かれているような、職業やら学歴やら、そんなことは本当に"あなた"を構成するものだろうか、ということだ。僕はその欄に"田舎者"としか書いていない。学歴や職業は"僕"にとってどうでもいいことだからだ。もちろん高学歴だが、「すだちくん」として映画の感想文を公開している限り、僕の実際の経歴なんて関係ないだろう。
さて、ベルトルッチ監督はこうした実存に関わるテーマの小説を何とか映像にしようと奮闘したと思う。砂漠のシーンが多いからか映像で黄色が強調されている。ただの恋愛ストーリーというわけではなく、砂漠の奥へ向かった夫婦がどのような内面の変化を迎えるのかということが主眼なので、観客にはウケにくいだろう。興行成績はひどいことになった作品だが、僕は"よくできました"をあげたい。映像にしにくいテーマだからこそ、ベルトルッチ監督が「ラストエンペラー」の後に試してみたかったんだろうなと思う。
素直になれない夫をマルコヴィッチは好演したし、やや本作には合っていないようにも感じる坂本龍一の音楽も良い。ただ、これは大人向けである。若いうちに観てもピンとこないだろう。