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キューブリック監督の本音 / 「バリー・リンドン」

映画監督のなかで最も優れていた人物はスタンリー・キューブリックだと思うが、それはキューブリック監督が「ストレンジラブ博士」以降、すべての作品の監督と脚本と製作を手がけたことからも分かる。誰にも口出しされず、撮りたいテーマをひたすら撮るんだという姿勢は映画監督ではなく芸術家の生き方である。
どの作品にもキューブリック監督が問題として取り上げているテーマが色濃く反映されていて、特に1975年の映画「バリー・リンドン」は、監督の遺作となった「アイズ ワイド シャット」を解く鍵となる作品だと思う。
しかし、監督の作品のなかで最も言及されることが少ない映画でもあるだろう。それはおそらく「バリー・リンドン」が、世の中で地位の高い人たちの醜悪な側面を描いたことで上流階級や成功者たちに好まれない表現でありつつ、地位が高くない多くの観客は「なんだ、上流階級の話か」と眺めてしまい、実はキューブリック監督が地位の上下にかかわらず、誰もが持っている賤しい心を撮ったことに気付かないからだろう。優れた映画や小説とは、そこで展開されているものが"たとえ話"なのだ。このことに気付かない人はかなり多い。
物語の前半は、18世紀の七年戦争の頃を舞台に、レドモンド・バリーというアイルランドの農家に生まれた男が機転と根性を武器に成り上がっていく様を描いている。ウンベルト・エーコの小説「バウドリーノ」のように、どこまでが本当の話なのか分からないように進んでいくレドモンドの成功譚は、あらゆる"語られたこと"はウソでもあるという、映画や小説、あるいは人生の本質である。
そして後半になると、リンドン卿の未亡人と結婚したバリーがイギリスの上流階級の仲間となり、自らも爵位を求める運動を始める姿が描かれる。キューブリック監督は一貫して上流階級たちの縁故や、身内贔屓、そして金銭であれ道徳であれ"損"になるようなことから逃げ出す姿勢を撮っている。これは今日でもエスタブリッシュメントと呼ばれる人たちから平凡なサラリーマンに至るまで、皆に共通する性根である。映画では上流階級たちの姿として描かれているが、これは観客の誰もがじぶんの胸に手を当てるべきことだ。劇中でも、城にやってきたバリーの母がその手にした権力をふるう姿が醜く撮られている。富や名声や権力というものに惑わされる人の心根をキューブリック監督はじっと見つめていた。より正確に言えば、富や名声や権力を手にすることによって、その人の本性が顕になるのだ。キューブリック監督は綺麗事を撮らない。僕はその姿勢が好きだ。
また、本作は"父"であることがテーマでもある。映画の冒頭でバリーは決闘により父を失い、叔父やシュヴァリエとの関係が父子のようなものだった。父を亡くしたバリーはやがてリンドン家に来てから生まれた息子を溺愛し、結果的にそのことによって息子を失うことになる。先代リンドン卿の息子だったブリンドン子爵とは良い関係を築くことができず、ついに子爵との決闘によってバリーは富と地位を失う。父であることがどのようなことか、それを描いた作品でもある。
本作は18世紀の上流階級の暮らしを衣装から小物に至るまで見事に再現した作品だが、では現代のエスタブリッシュメントたちは、その縁故や身内贔屓を用いて何をしているのか。「アイズ ワイド シャット」はその真相をスクリーンの中に秘めているはずだ。
キューブリック監督は、人が世の中で"成功"することによって得る富や名声によって、人間の抱える醜い本性が見えやすくなるという視点を持っていた。本作ではレドモンドだけが、いつまでも農民であり、詐欺師のようなギャンブラー気質が抜けなかったからこそ、リンドン家に入ることで身を滅ぼしたという悲劇なのだ。
本作は第一部と第二部に分かれていて、合間に休憩を挟んでいるものの、181分の長い作品である。しかし、レドモンドという男の数奇な人生を見つめることで、観客は人間の性根について考えさせられるように撮られた映画だ。マーティン・スコセッシ監督は、キューブリック監督作品では「バリー・リンドン」がいちばん好きだという。主人公の人生を追いかける手法が得意なスコセッシ監督らしい好みである。

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