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神様どこですか / 「第七の封印」

And when he had opened the seventh seal, there was silence in heaven about the space of half an hour.
(そして子羊が第七の封印を解くと、天国に30分ほど沈黙が流れた)

Revelation 8:1

ヨーロッパの映画監督の中でも特に映画を"芸術"として撮っていた者の一人が、スウェーデンのイングマール・ベルイマンだろう。スタンリー・キューブリックから黒澤明に至るまで、多くの名監督たちがベルイマンの作品を称賛し、今日の映画に与えている影響は計り知れない。ウディ・アレンは「アニー・ホール」のなかの会話でベルイマンを褒め称え、デヴィッド・リンチは「マルホランド・ドライブ」でベルイマンの映画をオマージュした。
1957年の映画「第七の封印」は、ベルイマンの出世作となった作品だ。14世紀のスウェーデンを舞台に、信仰するとはどういうことかを問いかけた映画である。当時のヨーロッパは腺ペスト(bubonic plague)、いわゆる黒死病が大流行していた時期であり、主人公アントニウス・ブロック(マックス・フォン・シドー)が十字軍への遠征から祖国に帰ってくると、海岸で死神に出会ってしまう。ここでブロックは死神にチェスの対戦を申し込み、負けたら仕方ないものの、勝ったら見逃してくれという契約をし、自らの妻が待つ城へと旅を続けながら、時折現れる死神とチェスの対戦を続けるのだったーー。
題名からしてヨハネの黙示録そのままであるように、この映画では、神を信仰することへの疑問が表明されている。それは、第二次世界大戦と、そこで行われた数々の戦争犯罪を知った後に、ヨーロッパの人たちがみんな抱えた不安である。神がいなければ死んだ後だけでなくこの人生も虚無ではないかという主人公アントニウスの怖れの告白は、そっくりそのまま戦後に流行していた実存主義のようでもある。ただ、物語の舞台はあくまでも14世紀であり、そうした恐怖の象徴として"死の舞踏"のフレスコ画が劇中に登場する。
しかし怖れと同時に、アントニウスは求道者でもある。旅の途中で出会った"魔女"とされる女に、神について訊きたいことがあるから悪魔を呼んでくれと頼むほど、信仰の意味を求めていた。道中で出会う狂信的な信者たちのようになれないアントニウスには知性があり、だからこそ旅芸人のヨフに向かって「神が隠れている以上、信仰なんて苦痛みたいなものだ」と愚痴を述べたのだ。
旅芸人ヨフとその妻ミアという名は、ヨセフとマリアのことだ。アントニウスはこの家族を死神から守ってやるために、死神をチェスの勝負に熱中させ、映画の最後に描かれた死の舞踏のシーンの目撃者とした。
もちろんアントニウスが無を受け入れたのかどうかは明示されておらず、それは観客の解釈に委ねられている。ニーチェの「神は死んだ」という声がずっと響き渡っているような映画と言ってもいいだろう。つまり、何かを信仰するということ、何かの価値を見出すことなどは、ありもしないものをでっち上げて背後世界(Hinterwelt)を作り出しているに過ぎない、という指摘に君たちはどう反論するか、というベルイマン監督からの問いかけであり、ベルイマン本人もこのことについて考えていたに違いない。
さて、この映画はじっと観ていると、役者にカメラを近付けるように撮影されていて、会話が終わるとパッと次のシーンに移動することに気付くのだが、この調子が黒澤明監督の映画、特に「羅生門」を思い出させる。ベルイマン監督は黒澤明の大ファンであり、後に文通する仲になるのだが、その影響を感じさせる作品に仕上がっている。
余談になるが、カンヌ国際映画祭において審査員特別賞を受賞した本作によって主演のマックス・フォン・シドーは一躍有名になり、後にハリウッドに進出して「エクソシスト」や「マイノリティ・リポート」など数多くの映画に出演した。ベルイマン監督と並んでスウェーデンを代表する映画人だった。
「第七の封印」は、まるで文学を読み終えた後のような感覚の残る映画である。アメリカの"ムービー"ではこういう作品は実現できないだろう。

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