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解放されることのない悲しみ / 「それでも夜は明ける」
それまで知らなかったストーリーを2時間ほどの映像にまとめてくれるのだから、映画というメディアはノンフィクションにも向いている。より正確に言えば、ノンフィクション・フィクションのことだ。何かの話を物語るということは、内容の取捨選択があるのだからフィクションと言える。
1841年にワシントンD.C.で誘拐され、ルイジアナ州で12年間も奴隷として労働させられていたソロモン・ノーサップは地元のニューヨーク州に帰ってからすぐに自らの体験を話し、1853年に Twelve Years a Slave として出版された。これを映画化したものがアカデミー作品賞受賞作である2013年の映画「それでも夜は明ける」である。もちろん原題は 12 Years a Slave だ。
物語は主人公のソロモン(キウェテル・イジョフォー)が奴隷商人によって拘束され、ルイジアナ州の奴隷市場に連れていかれるところから始まる。敬虔なキリスト教徒であるフォード(ベネディクト・カンバーバッチ)に購入され、ソロモンはその農園で仕事に励むのだが、そのことで白人の監督ににらまれ、ソロモンの身の安全を案じたフォードは知り合いのエップス(マイケル・ファスベンダー)に売ってしまう。サディスティックかつ不安定な精神のエップスは奴隷たちを日常的に虐待し、気に入っている女の奴隷のパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)をレイプしている。ソロモンは奴隷として様々の経験をし、やがて時が経ち、カナダ人の大工バス(ブラッド・ピット)に自由黒人だった素性を打ち明け、知り合い宛の手紙を頼む。数日後、エップスの農場に保安官がやってきてついにソロモンは解放され、ニューヨーク州の自宅に帰るーー。
全篇にわたって、およそ見るに堪えないシーンの連続である。白人の農園主やその妻、そして使用人たちによる黒人奴隷への虐待が次から次へと繰り広げられる。しかし、この映画で特に重要なことは、マックイーン監督は黒人奴隷の絶望や諦めだけではなく、卑屈にも見える順応も描いていることだ。奴隷という制度のなかで、ソロモンは常に反抗しつつも、しかし同時にバイオリンを弾いて白人を喜ばせるような"理想的な奴隷"であることが強調されている。このことは、映画の中盤が過ぎてからソロモンがようやく奴隷たちの歌う field holler (奴隷たちが労働しながら歌っていたもの/ブルースの原型)を口ずさむようになるシーンによって表現されている。つまり、自由黒人としての反抗から、奴隷たちとの連帯を意識するようになっていく。
映画の後半になると、キリスト教徒であるはずの農園主がなぜ奴隷を虐待するのかという会話が挿入されている。ネイティヴ・アメリカンや奴隷を人間として扱ってこなかった南部の白人の詭弁が批判されていると同時に、人間が他人の自由を侵害していいのかという問いがある。今日でも多くの国で特定の民族が虐げられているという現実を思い出すべきだ。白人は黒人を奴隷にしたが、今日では特定の民族を殺している国もあるのだ。また、日本列島に限って言えば、アイヌはどこへ行ったのか。日本人はアイヌに何をしたのか。こうした映画は他人事ではない。
鑑賞してから溜息しか出ないような、陰鬱な気持ちになる作品だが、これがノンフィクション・フィクションであることを思い出すと、人間の残酷さをあらためて認識する。後に多くの歴史家たちが、ソロモンの口述は"驚くほど正確な記録"であることを証明している。12年間、奴隷にされ、しかも生還した稀有な記録である。
しかしながら、この邦題「それでも夜は明ける」はバカにも程がある。ラストシーンの直前、ソロモンが解放されて馬車に乗る時、パッツィーと抱き合ったシーン(この記事の写真)の意味が分かっているのだろうか。ソロモンは自由黒人だった事実が証明されたことにより解放されるのだが、パッツィーたちのようなもともと奴隷だった人たちは解放されることがないのだ。ここには北部と南部の違いという辛い現実がある。夜が明けることなく農園で労働させられ、虐待され、死んでいった奴隷たちが大半なのだ。この映画を鑑賞して「それでも夜は明ける」というタイトルを思いつく人間には感性と知性と品性がない。拉致されたことでソロモンは過酷な生活を12年ものあいだ強いられたが、一生奴隷だった人たちがほとんどだからこそ 12 years という表現が生きてくるのだ。「12年の奴隷」という直訳でいい。邦題をつける奴はとことん頭が悪い。