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機動戦士アイリッシュ / 「ミリオンダラー・ベイビー」

世界を上手に受け取るためには、知性も感性も必要である。仏教でも知情意という言葉がある。アカデミー賞の作品賞を受賞したクリント・イーストウッド監督の2004年の映画「ミリオンダラー・ベイビー」は、"ふつうの日本人"にとってメッセージを受け取りにくいものだろう。なぜなら、この物語の核となっているものはアイリッシュということだからだ。アメリカ合衆国に住んでいる人を"アメリカ人"と大雑把にしか捉えることのできない人、カトリックとプロテスタントの違いが分からない人は、本作を観ても「お嬢ちゃんがボクシングで頑張る話」にしか見えないだろう。noteに掲載されている洋画の"感想"にしても、映画ライターを自称する連中の記事にしても、それらの大半が寝ぼけた内容である理由は、記事の書き手が歴史や政治などについて疎いために、登場人物だけを見て背景が見えていないからだ。
さて、クリント・イーストウッド監督自身が演じる主人公フランキーのファミリーネームはダン(Dunn)であり、ジムにやってきたマギー(ヒラリー・スワンク)のそれはフィッツジェラルド(Fitzgerald)である。冒頭から主要な人物がアイルランド系アメリカ人であることが明かされている。フランキーはイェイツの詩集を読んでゲール語を学習していて、マギーはオザーク高原から1人出てきたという設定になっている。オザーク高原とはミズーリ州を中心に広がるアイリッシュ系の人たちの入植地であり、非常に保守的な土地柄で有名なところだ。つまり、自立したい女にとって生きづらい所である。2014年の映画「ゴーン・ガール」はオザーク高原のそうした雰囲気を題材にした映画である。
アイルランド系アメリカ人はアメリカという国のなかで長らく差別される立場だった。プロテスタントが主流のイングランド系やドイツ、オランダ系が多数を占める所に後からやってきた少数派な上に、宗教もカトリックであることが理由だ。酒をよく飲み、荒くれ者が多いことから軍隊や警察に勤める者が多く、マフィアになる者も少なくなかった。2019年の映画「アイリッシュマン」の主人公フランクも、もちろんアイリッシュである。アイルランド系として有名だったケネディ大統領をはじめ、今日でもアメリカ人の1割ほどを占めている民族だ。こうした経緯から、ハリウッドにはアイリッシュが多い。アメリカにおいて演劇は地位の低い仕事とされていたからだ。なお、クリント・イーストウッド監督は様々の民族の血を引いているものの、本人は自らをアイリッシュだと自認している。
こうしたことを踏まえて冒頭の写真を見れば分かると思うが、本作は「がんばれアイリッシュ」である。Mo Chuisle とゲール語の記された、白と緑の民族カラーのガウンを着ているマギーが相手を殴り倒しまくる、途中までは痛快な話である。これはちょうど、アイリッシュと同じくアメリカで地位の低かったイタリア系アメリカ人であるロッキー・バルボアを主人公にした映画「ロッキー」みたいなものだ。
しかし、試合中の事故によってほぼ全身が動かなくなってしまったマギーがフランクに介錯を頼んだものだから、キリスト教の団体や障害者の団体から抗議が来たそうだ。ところが本作の主旨はマギーが一生懸命に生き、もはや本望であるという武士のような散り方を選ぶことなのだから、言い分は理解できるものの「うるせえバカ」で構わない。この最期は同じくイーストウッド監督の2008年の映画「グラン・トリノ」にも通じるものだ。障害者であるから死ぬというメッセージではなく、マギーという登場人物は「もうここらでよか」に至ったのだ。これは個人がどのように人生を過ごしたいかという美学の問題、すなわち個人の自由に帰せられるべきことである。自殺を禁忌としているキリスト教の保守派にしてみれば、個人の自由の範疇ではないのかもしれないが、本作のマギーはこういう女だったのだ。どう生きるかは個人の勝手であるべき、というのが僕の持論だ。ちなみに、イーストウッド監督は昔からキリスト教徒ではなく、自然のなかに神聖なものを感じると言って瞑想を好んでいる男である。
とても良い映画だ。作品賞に異論はない。ただ、僕は本作の前年にイーストウッド監督が撮った「ミスティック・リバー」の方が好きである。

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