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【超解説】 ストレンジラブは正気 / 「博士の異常な愛情」

前回の「ラ・ジュテ」から繋がるので、ついにスタンリー・キューブリック監督の1964年の映画「ストレンジラブ博士」について書くタイミングになってしまった。そもそも、原題は Dr. Strangelove or: (以下略) なので、これを「博士の異常な愛情」と訳すことには反対である。劇中でも説明されていたように、博士の元々のファミリーネームは Merkwürdigliebe であり、こんなヘンテコなファミリーネームはドイツ語圏に存在しない(はず)のだが、これを英語に直訳したものが strangelove である。しかし、ドイツ語の merkwürdig も、英語の strange も、日本語に訳すなら"奇妙な/風変わりな"という意味である。"異常"はニュアンスが異なる。この映画の邦題は「ストレンジラブ博士」で良いのだ。
さて、本作については大勢の人たちが山のように感想とか評論という名のコピペを語ってきたので、僕はあまり指摘されていないであろうことにだけ絞って書く。
まず、キューブリック監督のような完璧主義者が、副題を適当に付ける訳がない。先ほど(以下略)とした部分は、How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb (どのようにして私は気にすることをやめて爆弾を愛することができるようになったのか)である。ここで worrying といわれていることは、劇中で2箇所が該当するだろう。1つ目は、リッパー准将が語っていた水道水へのフッ化物添加をはじめとするソ連の陰謀を"心配した"ことである。そして2つ目は、ラストシーンでストレンジラブ博士が披露した人類の保全計画について、タージドソン将軍がソ連との間の mineshaft gap (鉱石などを採掘するための坑道の、米ソ間の差)を"気にした"ことだ。これはケネディ大統領が熱心に説いていた、ソ連との missile gap をもじっている。つまり、worrying とは敵国の状況、あるいは行動を勝手に妄想することとして本作は風刺している。そしてナチスドイツは、チェコであれソ連であれユダヤ人であれ、それぞれの課題についてヒトラーが worry したからこそ起きた悲劇であり、冷戦もまたそうではないかという指摘になっている。
では、どのようにして stop worrying and love the bomb となるのか。それがストレンジラブ博士の、地下に逃げて男1人につき女10人によって国力を増強するという、セックスがメインの提案を指している。つまり、ここでの bomb とは、劇中でテキサス出身のコング少佐(キングコング)がロデオのように跨がっていた核爆弾のことを指しながら、しかし同時に、この bomb は射精も暗示していると僕は思う。そもそも、敵の領土に侵入し、低空でレーダーを避け、そして基地で爆発するという一連の経緯は、どうみても精子の旅そのものである。すなわち、worry によって発生する戦争によって死者がいくら出ようとも、セックスによって人口を増やせば良いという極論でありつつ、同時に、戦争なんか止めてセックスしようという提案にも読める副題だ。英語圏のインテリはダブルミーニング(double entendre)を好むことは覚えておいた方が良い。
映画のタイトルについて話をするだけでこれだけの長さになってしまう傑作なのだが、この作品を支えたピーター・セラーズの圧倒的な演技力、そして風刺する才能は飛び抜けている。セラーズは本作の2年前にもキューブリック監督の映画「ロリータ」において、クレア・クィルティという不気味なキャラクターを演じていた。

ピーター・セラーズは心臓発作によって若くして亡くなり、1979年の映画「チャンス」が遺作である。

さて、タージドソン将軍やリッパー准将のモデルとされている人物がカーティス・ルメイ空軍大将であることを知っている人はある程度いるのかもしれない。東京大空襲や原爆を投下した部隊の指揮官だった人物だが、日本は1964年にこの男に勲一等旭日大綬章を授けている。航空自衛隊の育成に力を貸してくれたから、だそうだ。控えめに言っても正気の沙汰ではないが、この国の勲章なんてその程度の価値しかないということである。
しかし、このルメイをモデルにした人物が核戦争を始めようとするという筋書きは興味深いことを示唆している。すなわち、キューブリック監督と原作者、そして脚本家のテリー・サザーンたちは、日本への原爆投下が"陸軍によって落とされた"ということ、すなわちトルーマン大統領は事後承認だったということを当時おそらく知っていたことになるからだ。もちろん、戦後もアメリカ空軍のドンとして何をしでかすか分からない男だった。文民統制には限界があるということをリッパー准将も語っていたし、大日本帝国の内閣をダメにしたのが軍部大臣現役武官制であることも含めて、文民統制という理想の難しさにも触れている作品だ。
車椅子に座っているストレンジラブ博士は、何名かのモデルが存在しているようだが、障害を抱えているという描写はナチスの敗北を意味しているだろう。しかし、作戦室でのラストシーンで博士は立ち上がり、"Mein Führer, I can walk!"(総統! 私は歩けます!)と叫ぶ。このシーンが示唆することは、ナチスドイツは敗れたものの、優秀な人間の選抜や、既成の倫理を破壊するような男女のあり方など、科学だけに着目していれば必ず登場するであろう発想は、これからも消えることがないし、そういったある種のナチズムに対して、我々すなわち観客はどのような"倫理"で対抗しますか、という問いかけになっている。実際に、本作ではリッパー准将に対して英軍のマンドレイク大佐は何も有効な反論ができず、作戦室はタージドソン将軍とストレンジラブ博士の独擅場だった。
つまり、アホな政治家が核戦争を始めちゃうかもね、という頻繁に見かける解釈は本作のあらすじだけを眺めたMARVELレベルであって、まず戦争とは worry によってなされるものであること、その worry は昨今のイスラエルを見ても分かるようにろくな結論を導くことがないこと、そしてまた、科学一辺倒の思考をしていれば倫理と必ず衝突することになるし、ナチスドイツは敗れたものの、科学がますます進歩していくなかで発生してくるナチズムと呼べるような思考に対してこれからの人類はどういった思想で対抗するのですか、というユダヤ人であるキューブリック監督からの問いかけになっている。
優れた映画であり、最高のコメディである。勘違いしている日本人が多いので一応付言しておくと、コメディとは世の中を風刺、批判するものであって、コメディアンとは笑いを通して社会を変えようとする人たちである。そう考えると、どうして日本が今こんな国なのか、理解できるはずだ。

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