ディケンズが導いた運命 / 「ヒア アフター」
1955年の映画に初めて出演して以来、数えきれない作品に登場し、また監督した映画も数多いクリント・イーストウッドはハリウッドの生き字引と呼べるだろう。"Go ahead, make my day."のセリフで有名なダーティ・ハリーから、「グラン・トリノ」で演じた渋い老人の役まで、正直に言うと、まだ生きてたの?というレベルである。そんなイーストウッドの映画の中でも僕は2010年の監督作「ヒア アフター」を推したい。あまりにも過小評価されている映画だし、おそらく多くの方が見落としているところがあると思う。御年94、存命中にnoteにしておく。
映画は2004年のスマトラ島沖地震による津波のシーンから始まる。フランスのジャーナリストが津波にのまれ、臨死体験のような、あの世のようなもの(hereafter)を目撃する。一方、ロンドンに住む少年マーカスは、亡くした兄との再会を望んで霊能力者を探している。また、サンフランシスコに住むジョージは、かつて霊能力者として有名になったものの、辛い経験からその力を使わなくなり、静かな生活を送っている。そしてこの3人が、何かに引き寄せられるようにロンドンで出会うーー、という話だ。
このように複数の登場人物の視点で描かれる作品(最近はこれを hyperlink cinema と呼ぶことが多い)は、ハリウッドにおいて"客にウケない"とされている。例外は「パルプ・フィクション」くらいだろう。「クラッシュ」はアカデミー作品賞を受賞したが、あまり評価されていない。
さて、「ヒア アフター」には物語の土台になっているものがある。それはジョージが劇中で"好きなんだ"と言及しているディケンズである。ジョージがロンドンへ出かけた理由も、チャールズ・ディケンズ博物館へ立ち寄り、ロンドンのブックフェアで大好きなデレク・ジャコビ(本人として出演)の朗読を聴くためだった。
ここで朗読されていた作品が「リトル・ドリット」(原題は Little Dorrit)だ。大雑把にあらすじを説明すると、父親が債務者向けの監獄に入れられていたせいで、監獄で生まれ育ったエイミーが、莫大な遺産を父が相続したことにより、様々の人たちと関わって色んな体験をしながら生きていく、という話だ。この作品は「ヒア アフター」と同じく、複数の登場人物がそれぞれ絡み合うように描かれ、やがて1本につながるようになっている。ディケンズの作品のなかであまり有名ではないのだが、それはおそらく当時の政府や階級制度を痛烈に批判したからというよりも、物語に複数の視点が持ち込まれていたからだろう。
「ヒア アフター」では、臨死体験をしたジャーナリストも、兄を求めるマーカスも、ジョージという男を通して1本の線につながるようになっている。これを"出来レース"と言うことは簡単だが、よく考えてみてほしい。誰もが毎日、色んな人と出会ったりすれ違ったりするなかで、互いにどこかが重なっていて、ほとんどそれに気づくことなく過ごしてしまうのだが、稀に"運命"としか言いようがないような出会いがないだろうか。袖振り合うも他生の縁、という言葉もある。ブックフェアでデレク・ジャコビが朗読していた箇所は、冒頭に掲げた一節、"〜再びここにやって来ることが彼の運命かもしれない〜"という部分だ。
この映画では、この3人が運命の出会いをするわけだが、この3人とて、また翌日、その翌日、のように人生は続いていく。観客も同じことである。そうした人生のなかで、きっと人は誰しも運命の出会いをしているはずだ、それに気付いていないだけかもしれない、というメッセージがこめられている。それは、この3人が人生において何かを"求めた"からである。
この3人にとって大切なことは、またこの映画で描かれた日々の翌日、その翌日、という"今後"(hereafter)なのである。映画を観た後にそうした余韻の残る名作だ。