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down the river 第三章 第二部〜飛翔⑨〜
人の勘は嫌な時ほど嫌になる程当たってしまう。
ユウにとって今嫌な事は真里から離れてしまうことだ。
「真理!もしもし!どこにいる!?今どこだ!?塾じゃねぇのか!?」
「新田さん…。バレちゃった…か…。」
電話口で力が抜けた真理の声がする。
「新田さん、電話代かかっちゃう…。明日ね…。」
「待て!真理!無事なんだな!?お前は大丈夫なんだな!?」
「無事…?大丈夫…?私は元気よ?心…以外はね…心は…今…すっごく痛いけど…」
「…?」
「じゃあ切るね、新田さん…」
「おい!真理!」
真理の電話が切れた。
「心は痛いけど」というフレーズがユウの胸をえぐる。
物理的な痛みを超える痛みがユウの胸を襲う。
「真理!ふざけんなよ!」
ユウは出てきたテレホンカードを再度公衆電話に突っ込み真里のPHSに電話をかけたが、電波の入らない場所にあるか電源が入っていない旨を伝える無機質なアナウンスが受話器の向こうで響くだけだった。
・・・
その晩、ユウは涙で枕を濡らした。
真里の身に何が起こったかはわからないが間違い無く自分の元を去っていく、ユウはそう確信していた。
『あの顔…あの目…アレは間違い無い…同じ顔してんだよ…。』
何かからの別れを決意した人間は同じ顔つき、目つきになる。
ユウの経験ではそういう理屈の様だ。
そしてその顔つき、目つきになった者の決意は他人から何を言われても揺らぐものではないという事もユウは知っている。
だからこそユウの悲しみは深い。
平和を退屈だと言い放ち、平和から産出される芸術は無いという意味合いの事を言っていた自分が憎たらしい。
「なぜだ…なぜこんな事に…?真理に何があったんだ?何を考えているんだ?」
ユウは結局一睡もできずに次の日を迎えた。
眠れていないユウの目に低い朝日と冷たい空気が突き刺さる。
しかしそれに対する苛立ちすらユウの心の中には無い。
いつも早朝に真理との一時を過ごす人気の少ない建屋外の渡り廊下へ無感情のままユウは足を運んだ。
「ま、真里!」
テニスコートを見下ろせるいつものポジションに真理が立っていた。
ユウは一気に真里との距離を詰めると真里の冷たくて、柔らかな両頬に手を当てた。
「お前…お、お前…」
「新田さん…ごめんね?嘘ついちゃってた…本当にごめん…それと…」
ユウは直感した。
これから数秒後に真理は別れを告げるはずだと。
そう思った瞬間ユウの視界が曇り、時間の流れが急激に遅くなった。
『これは告げられる…もう…終わりなのか?』
「新田さん、別れましょう。」
真里は両頬に添えられたユウの手を握り、ゆっくりと下に下ろすと虚ろな目で静かに別れを告げた。
ユウの心拍数が異常に速まり、視界が赤黒く染まっていく。
「な、ん、でだ…よ…真里…」
ユウは怒りとも取れる口調で真里に問いかけた。
「私は…」
「何だよ…」
「わ、わ、わた、私は…」
「何だよ!!はっきり言え!!」
「私は!私は…百合子と生きる…。」
「俺…じゃなくて…か?」
ユウのそのセリフを聞いた真里はハラハラと質量の無さそうな涙を流し始めた。
「答えてくれよ…真里…」
「新田さんには…ウッ…ちゃ、ちゃんと言わないと…ウッ…。」
ユウは泣きじゃくる真里を目の当たりにするとなぜか亮子がこの世を去ってしまった時と同じ感情に襲われた。
積み上げてきたものや共有した時間など、簡単に壊れてしまう。
あっけない。
この状況はこの一言に尽きる。
「新田さん…百合子に迫られてから…身体が疼いてしょうがないの…。」
「何度言えばわかるんだ真理…。心と身体は別だ…」
「別じゃない!!」
真里の声が辺りに響き渡る。
その声は可視化され、大きな波になりユウの身体を打った。
そしてその衝撃に驚くユウに真理は畳み掛けていく。
「新田さん!私は!百合子の事が頭から離れないの…。また唇を奪われたい…また百合子の華奢で細い指先で乳首を転がされたい…そればっかり…。勉強も手につかなくなってきた…頭がおかしくなりそうだった!本当に辛かった!そして私は行動したわ…。自分の為だけに…自分の欲の為と!自分の将来の為に!!」
「…え?ま、真里?こ、行動?」
ユウの鼓動が一気に速まる。
そして胃がギュウと収縮する懐かしい不快感を久しぶりに味わった。
『く、来る…多分一番聞きたくない…一番俺が望んでいない言葉が来る…』
真里の口がムニャリと嫌な音を立てて次の言葉を発しようと開いた。
『り、りょ、亮子…。』
ユウの目に映る真里の顔が今は亡き亮子と重なる。
「百合子にこの身体を捧げた…ハハ…」
真里は何かを諦め、何かを捨てた様な笑いを泣きながら披露した。
そして亮子と重なる真里は亮子の声で話を続けた。
「百合子は喜んでくれた…私も…私の身体も喜んだ…。私の望みが叶ったわ!?私の身体がずぅっと望んでいた事が叶ったの!百合子とキスして、百合子と裸で抱き合い、百合子に乳首をつねられて、感じてる私のだらしがない顔を百合子に至近距離で見つめられる…。あの日から…ずっと望んでいた事…それが叶ったの…」
ユウの心から灯りが静かに消えた。
『あ、あれ…?なんだ…?この目の前にいるのはいったいなんだ?』
「そこでわかったの。私は新田さんに相応しい人間じゃない…そして私の身体はもう百合子のものになってる…って…」
「わかった、もう…もう…いい…。もう聞きたくない。理由はどうあれ別れるわけだからこれ以上聞いても時間の無駄だ…。お前だって今こんな事に一生懸命になる時期じゃねぇだろ?天澤さんと仲良く過ごすといい。天澤さんは勉強できるんだろ?お互いを高め合って受験に挑めるじゃんか。じゃあね。」
ユウは全身の力が抜けた様にフラフラとその場から去ろうとした。
『この顔をした奴に何を言っても変わるこたぁない。時間の無駄だ…。』
ユウは以前から何を言っても聞かない、譲らない、歩み寄らない人間と何かを話し合う事は時間の無駄だと思っていた。
そして決心をした顔をしておきながら自分の説得や話し合いでフラフラとなびいてしまう人間と話し合いをする事も無駄だと考えている。
要するにユウは自分の考えや意見を人に言う事を極端に面倒くさがる人間なのだ。
「待ってよ!!新田さん!」
真里はユウの後ろ手を掴んだ。
柔らかく、しなやかで、きめ細かい肌をした真里の手がユウの手に触れる。
「どうした。俺は行くぞ?お前も好きなところへ…好きな人のところへ行けよ…。」
虚ろな目で力無くユウは返事をした。
というより、仕方無く返事をしてあげたのだ。
真里の身体の中で手はユウにとって大好きだったパーツの1つだ。
その手を握るだけで心が休まり、時には激しい性欲が湧き起こった。
真里が生理中であればその手でユウの体液を絞り出し、快楽へ導く事もあった。
その手が、そんな手が今のユウには憎しみの対象となっている。
「と、止めないの…?止めてくれないの?」
涙を拭かずに真理はユウの手を握り締めた。
「何を言ってる?止めてほしいのか?」
「…。」
ユウは振り返らずに話を続けた。
「俺が止めて揺らぐ様な決心なのか?もしそうだとしたら1番俺が嫌いなタイプだ。決心したツラしておきながら簡単に気持ちが揺らぐ…1番腹が立つタイプの人間だよ。」
「そ、そんな…あ…」
真理は口を金魚の様にパクパクさせながら涙の川を更に加速させた。
「助けてよ!助けて!!私!普通の恋愛をし続けたい!!子どもも産みたいよ!!自分の子どもがほしい!!普通にしたい!!新田さん!助けて!!」
『普通…か…。助けて…か…。』
ユウは思い返した。
あの夏祭の日、彩子と祭り会場まで歩いたあの時を思い出した。
あの時の彩子の頼もしい横顔が目に焼き付いて離れない。
ユウは普通というステージへ引き戻してほしいと心の中で彩子に懇願した。
そしてそれは言えずに時は過ぎ、もはや普通ではない事が普通になってしまっている。
あの時もし彩子へカミングアウトをして助けを求めていたら今自分はどこにいるのか、なぜ言えなかったのか、後悔の念は未だ消える事は無い。
「新田さん!!助け…助けて!!普通に結婚したい!子ども産みたいよ!!ねぇ!!新田さん!!」
「…。」
「新田さん!私辛いの!!こんな自分が嫌い!!許してとは言わないわ!でも!助けて!!お願い!!」
「…どうしてほしいんだ?助けるってどういう…事だ?」
「え…?」
「俺もね…そう思った。思った事があったんだよ。でも結局どうしてほしいかって事はわからなかったんだ。なぁ真里、お前はどうしてほしいんだ?どうする事がお前にとって救いなんだ?」
「そ、それは…」
「普通に恋愛して普通に結婚して普通に子どもを産んで普通の人生を歩む事が幸せであり救いであるなら…なぜ天澤さんを選んだ?何の相談も無しに…。」
「あ…う…その…」
「俺はお前を受け入れるつもりだった。なぜならお前も俺を受け入れてくれたからだ。男を受け入れ、男を愛し、男から愛された俺を女であるお前は受け入れてくれたからだ。」
「うう…うぅ…う…」
「真理…絶望的な事を言って申し訳ないが…男に抱かれ、女を抱いた俺から言わせてもらうが…」
「あぅう…うぅ…」
真理はゆっくりと掴んだユウの手を離した。
そしてユウはこの先もう二度とこのきめ細やかな手に触れる事は無いだろうと下唇を軽く噛んだ。
「同性と身体の関係を結んだら、もうそこからは抜け出せないよ…。いつも…いつもそこに、いつもその頭の中、心の中に同性の裸体がチラつくんだ。やったこたぁ無いが…あぁ麻薬とかってこんな感じなんだろなって思う。真里…お前はもう天澤百合子のモノだ。同性とセックスをした初めての相手、天澤百合子の影は中々離れてはくれないだろう。俺もそうだ。敬人の✕✕✕が必ず1日1回は頭をよぎる。」
「私はもう…戻れない…ってこと…?」
「あぁ。今の時点ではな…。俺はお前が引き戻してくれた。感謝してる。お前も…同性を超える異性と出会えるといいな。ありがとう真里…今までありがとう…。さよならだ。真里…。」
「…ウッ…うぅ…」
真里の足がユウの反対側へ方向転換する小さな音がユウの耳に入った。
ユウは頭を垂れ、目を軽く拭うと大きく息を吸った。
「真里…大学…受験…頑張れよ。さよなら。」
「さ…よなら…新田さん…うぅ…。」
ユウと真里はお互い違う方向へと歩き出した。
『栗栖さん…俺は誰も救えないってことか…。人は人を救う事なんて出来ないってことか…。瀧本さん…あんたの言う通りしたらさ、2人も壊しちまった…。なんの道しるべにもならなかった…。ただ人を狂わせて、ただ人を壊しただけだ…。あぁなんだろうな…なんでこんな気持ちになるんだろ…無性に会いてぇな…敬人…。フン…どんだけ俺は汚いんだ。真里と付き合う為に自分から別れたのに、真理と別れた瞬間身体が敬人を求め始めるとはよ…。つくづく…救えねぇクズだ…。』
ユウは止まらない涙の中でも大きくそそり勃つ自らの男性の象徴に、激しい嫌悪感を抱きながらその場を去った。
・・・
真理との別れからユウは火が点いた様に、曲を量産し始めた。
かと言って、質が落ちた訳ではなく「まさにBlue bowの楽曲だ」と自信を持って言える良質な楽曲揃いだ。
「そろそろ新しいベース欲しいな…。ギターも…。エフェクターも欲しい…。」
自宅の自室でユウは小さな声で呟いた。
ベース、アンプは通販の安物を小遣いを貯めて買ったものだ。
ドラムマシン、MTRは元田からのおさがり、安物のギターとボロボロエフェクターは花波からのおさがりだ。
「違いが分かる程の腕前じゃないから別にメーカー品じゃなくてもいいんだけど…さすがに通販だってわかるベースじゃカッコつかないわな…。」
ユウはふぅとため息を吐くと、隣の部屋にいる母親に声をかけた。
「なぁ、お母さん…。」
「んぁ?なんだ?」
寝ていたかと思う様な、乾いた口を連想させる、力が入っていない返事が隣の部屋から聞こえた。
「バイトしていい?」
「小遣い稼ぎ?」
「うん、まぁ…そんなとこ。」
「禁止じゃなかったっけ?」
「まぁね…。」
「停学になんじゃないの?」
「ま、まぁ…。」
「卒業できんの?」
「う、うぉう。」
「赤点とか…」
「大丈夫だよ!心配しなくても!」
「自分で責任取れるんなら好きにしていい。とは言いながらあんたはまだ法律上ガキなんだから私が責任取る事になるんだよ?高校生にもなるとガキのくせに自分で全部責任取れるんだなんてとんだ勘違いしやがる奴が多いけど所詮ガキはガキなんだから。」
「そんなガキ扱いしなくて…いいだろ?」
「別にあんたがそんな馬鹿なガキだとは言ってないよ。ただ私に迷惑をかけるなって言いたいだけ。約束できんの?」
「あぁ、勿論だ。約束するさ。」
「フン、親子の約束ほど適当なモノはない。」
「約束するって言ってるだろ!?なんでそんな喧嘩腰なんだよ!」
ユウは堪らず大声を上げた。
「ユウ、覚えときな。子は親との約束なんざクソ程にも思っていないのよ。親は真剣なのにさ。それでも親って子の事を信じるものなんだ。信じてしまうものなんだよ。破られる約束だとわかっていてもね。あんたが親になったら、…なった時の為によく覚えておくんだ。無いとは思うけど…無いとはね…思うけど一応覚えておくんだ。」
母親のセリフにユウの時が止まった。
女っ気の無い人間であれば何も引っ掛かる事の無いセリフだが、ユウが真理と付き合っていた事も知っている。
『それなのに…まさか…お母さん…本当に…。まさか…まさか!』
「聞いてんの?ユウ。」
「…。」
ユウは言葉を発する事が出来なかった。
恥ずかしいとか、申し訳無いとか、罪悪感とかではないが、何故か声が出せない。
「まぁいいや。そういう事だよ。信じてやるから私に迷惑かけない様にね。」
「…。」
母親の声色は変わらない。
ユウは結局最後まで声を出す事が出来なかった。
そしてユウはこの時、大きな変化と何か大きなものを失う予感がしたと後に語っている。
大きな変化や大きなものを失う時は前触れなしで突然訪れるものだが、この時のユウは何かを感じ取り、何かを悟ったという。
そして3日後、その時は来た。
「なぁ…俺は…俺のした事は…間違っていたのか…?あぁ…何も聞こえない…お母さん…ごめんな…。」