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down the river 最終章⑧

ユウの行動は素早いものだった。
金曜日の朝、出勤するとすぐに人事課の教育担当へ辞職の意を伝えた。
そしてその人事課の教育担当は意外な反応を見せたのだ。

「…そんな気がしていたよ。新田。」

「そんな気ですか…?」

人事課の狭い会議室の中に2人はいた。
窓も無く、会議というより面談しかできないくらい狭い部屋だ。

「俺はお前に変わった奴だと言った。」

「それは…聞きました…。」

「お前はこの会社に何しに来たんだ?遊びに来たのか?夢も何も無く、目的も目標も無く入ってきた新卒がほとんどなのは俺も人事として理解している!しかし!そんな奴らも徐々に自覚していくものだ!少しずつ目が変わっていく!だがお前は何だ!?何も無い!得意としているものがあるのか無いのかも自分自身理解していない!それを活かそうとも考えていない!何も感じないんだよ!!お前から!」

人事課の教育担当は声を荒らげた。
確かに彼の言う通りユウの中にあるものはよく分からない野心しか無いのだろう。

「…何も感じない…ですか…。それは人事として人を見る眼が無いのかも…」

ユウは流し目でゆっくりと瞬きをしながら人事課の教育担当を見つめる。

「どういう事だ!」

「僕の魅力に気が付いてくれる人はたくさんいます。その人達は何かを感じたから僕を利用して利益や快楽を得ようとする。そして僕はその人達に利益や快楽を提供し、自分の快楽も同時に得る。その関係が出来上がった…だから…辞めるんです。この僕から何も感じる事が出来ない人事がいる会社に僕から利益を提供する事は出来ないし、僕も快楽を得る事は出来ない。そしてそんな場所にいても何の意味も無い。いい大学出て人事で数年仕事したからって全部分かった気になってんじゃねぇ!!!」

「…!」

「気に入らねぇんだよ!全部分かってるみたいな事平気で言いやがってよ!!殴れよ!殴りたきゃよ!!あんた文武両道の素晴らしい人間なんだろ!?俺をぶん殴るくらい蟻を潰すのと変わんねぇだろ!?」

「…。」

「あんたに俺の何が分かる。俺が何者かも分からないくせに。」

人事課の教育担当は激昂するユウを睨んだ。
しかしその威嚇は空を切る。

「いい大学出たから何か見えるのかよ。なら教えてほしい。俺に何が見えた?答えてみろよ。」

追い打ちをかけるユウに観念したのか、人事課の教育担当は睨むのを止め、目を伏せた。
そしてそのまま話し始めた。

「お前は…分かっていない。世の厳しさをな…。」

「そうですか。世の厳しさは知らねぇなぁ。でも人間の事は人事課のあんたより知ってるよ。」

「黙って聞け!」

「お断りだ。金持ちの家でのうのうと武道を勉強を勤しんで、練習したらしただけ強くなり、勉強したらしただけ成績が良くなり、いい大学に入り、この会社にエリートコースで入社したあんたにこの世の厳しさなんて説いてほしくないな。俺はね、金が無い家庭に生まれ、裏切られて、同性からレイプされて、異性からSM紛いの事をされて何人もの男から輪姦されて、小便と精子をすすって生きてきたんだ。」

「…!」

人事課の教育担当は口をポカンと開いた。
開いた口が塞がらないという状況を体現している。

「この程度でへこたれてる奴は社会じゃ通用しないとあんたは研修中何度も言った。でもな!あんたの生きた30年近くと、俺が生きた20年近くじゃ濃さが違うんだよ!そんな背景も分からないくせに人生だの社会を上から語ってんじゃねぇ!」

ユウはもう止まらなかった。
現実ユウの中学生から高校生の間に経験してきた事と同じ様な経験した人間はかなりの少数派だろう。
しばらく考え込んだ人事課の教育担当は諦めた様に肩を落とすと、同じく諦めた様な口調で話し始めた。

「論点をすり替えてほしくなかったが…まぁ…その…もう何も聞く気は無いのだな…。確かに俺はお前の言う通りの人間だが1つだけ話…というか…アドバイスをさせてほしい。」

「何です?」

ユウの口調は未だ荒ぶっている。

「これから色んな人間に出会うだろう。だけどな…その人の生き方や人生観を否定しては駄目だ。俺の様に甘えた環境で過ごしてきた人間も…色んな経験を…色んな悩みを…色んな考え方をして、それなりに辛い経験をしてるんだ。そんな人達の生きてきた道を否定しては駄目だ。自分の生きてきた道が全てのものさしだと思わぬ事だ。俺の言いたい事は以上だ。」

「この程度でへこたれている奴は社会じゃ通用しない…だっけ?大丈夫でしょ?あんた通用してんじゃん。ハハハ。」

「もういい。わかった。退職の手続きをこれからやる。後は事務係の指示に従って書類を書いて終わりだ。貸与品は全て返却、後は寮の掃除、退居点検、これを今月一杯で行なう。今月は全て年休を使ってそのまま月末退職だ。大まかな流れはこんな感じだ。何か質問は?」

「特に。」

「分かった。これから頑張るんだぞ。」

人事課の教育担当はゆっくりと椅子から立ち上がると会議室から出て行った。

「終わった…か…。案外すっきりしたな。もっとモヤモヤするもんかと思ったけど。」

ユウは勝ち誇った顔で鼻息を荒くした。

「くぁあ…。あんま寝てないからな…眠くなってきた…。事務係まだ来ないかな。一眠りしたいんだけど…な…」

ユウはドロリと溶ける様に眠りの世界へと落ちていく。
ゴボゴボと水の中にいる様な雑音が響く中、声が聞こえてきた。

「イッテハダメ…」

「神…?神…美沙…か…?お前…あの時…クソっ…何だった?何をしたんだ?」

「イッテハダメ…」

「今日は攻撃してこねぇのか?イッテハダメ?前にも、その前…中学生ん時も…そう言っていたな…」

「イッテハダメ…」

「あの時は…意味がわからなかったが…言う通りにしとけば今の苦しみは無かったのか…?」

「イッテハダメ…」

「苦しみも無いが…快楽も無い…どっちが正解なんだろうな…」

ユウが疑問を投げかけると、まどろみの世界で天女の様に微笑む美沙の幻がユウ眼前に現れた。
かつて壊してしまった人間のあられもない姿と屈託のない微笑みになぜかユウはほっとした。
少なからず罪悪感はあったのだ。
そしてあの時なぜ美沙を壊そうとしたのかも年月が経過した今、理由がわからない。

「神…ごめん…。お前の人生…俺が壊した…んだよな…。わからない、忘れたじゃ済まないことは分かってる…でもごめん…。ごめん…。本当に…」

「ラタ…サン…サン…」

「え…?」

「起きてくださいよ。新田さん。」

ユウは人事課の事務係の声で、眠りの世界から引っ張り出された。

「はい、退職手続きの紙です。かけるものはここで書いて。で、ここにハンコを…」

「…?」

話好きそうな中年女性の事務係の話が止まった。
ユウの顔をじっと見ている。

「あ、あの…どうかしました?」

「あ、うぅん、教育担当の…あの…田中さんからなんか言われたの?」

「え?」

「泣いてたの?そう見えたから…目も赤いし…大丈夫…?」

ユウは事務係から言われて気が付いた。
確かに涙に濡れた部分が冷たい。

「あ、いや、別に…寝てしまってたんで…」

「そう、なら良いけど…」

苦しい言い訳だ。
寝ていた、寝不足、あくびをした涙の量ではないし、それらと泣き腫らした顔はまるで別物だ。
そして事務係の年齢ではそれくらいお見通しだろう。
しかし、泣いていた理由など今のユウには関係ない。
方向は間違っているのかもしれないがユウは前を見据えている。

『この事務係とも今後会う事はないんだ。泣き顔を見られたところで何も関係ないしな。ハハハ、何ならここで口説いても関係ないだろう。タハハ…。涙の理由を突き詰めても何も見えてこないだろう。』

退職の手続きは淡々と事務的に進み、山程ある書類に目を通し終える頃には半日が過ぎていた。
ユウ何となく身体にまとわりつく不快感に身をよじらせながら昼食を取る事なく退社した。

・・・

物が極端に無い寮の部屋、おまけに段ボールが数個積んであり、その雰囲気はまるで引っ越ししたての様だ。
その中でユウは電話をしていた。
相手は佐々木だ。

「ハハハ、そうかそうか。」

「女は卑怯なんだよ。まったく。」

「まさかトットの飼い主が女に寝盗られるとはね。」

「別にあたしの飼い主なんて何人もいるからいいんだけどさ…なんかその…自信無くしちゃうよね。男のままのあたしが好きって言うから普通にしてたのにさ、簡単に本物に行ったからね。ハハハ、なんかもう笑えてくるわ。ホント。」

「まぁそう言うなよ。元気出せ。飲みに行くか?少しなら奢ってやるよ?」

「いや、悪いし…いいよ。大丈夫。ところでユウ、松川さんとこに行くの?行く事に決めたの?」

「あぁ。会社も辞めたよ。」

「そっか…。素敵な身体よね、松川さん…✕✕✕凄いでしょ?もうなんかお腹の中身全部引きずり出されそうよね。」

「ハハハ、そうそう、本当に、ね?処女に戻った感覚だったな。いいところに引っ掛かって気持ちいいんだよ。」

「馬鹿ねユウ、アハハハ!ね、ユウ。明日言おうかと思ったけどもう耐えられないから言っちゃうわよ?」

「何を?何を言うんだ?」

「おめでとう!本当に幸せになってね!あたしも嬉しいよ!」

「トット…」

ユウは佐々木の言葉に何も返せなかった。
佐々木は自分が望んでいた未来をユウに持っていかれたのだ。
そしてユウはその勝利の美酒に酔い痴れ、その勢いでそのまま会社を辞めた。
更にユウは佐々木を遥か下に見下していたのだ。
しかし佐々木は楽しそうに、自分の事の様に喜んでくれている。
一度身体を重ねただけの相手と一緒に住み、生活していいものかというユウの心の中にあった僅かな迷いは佐々木のお祝いの言葉に全て吹き飛んだ。

「あぁ…トット…ありがとうな。」

「うん、本当に嬉しいの。良かった。」

「トット、お前に全て打ち明けて、色んな事を話せて本当に良かったよ。」

「ね?あの時、海で話してくれたもんね。フフン、あたしが初めてユウの✕✕✕しゃぶったんだよねぇ、ちょっとしょっぱかったよ。フフ。」

「タハハ…今は普通にお互いのしゃぶるけどな。付き合いはまだ短いけど、お前が一番の親友だな。」

「親友…」

「そう、親友だ…。」

その時、寮内の放送が流れた。

「A棟、411号室、新田さん。寮長がお呼びです。在室であれば事務室へ来て下さい。」

「お?何だ?トット、じゃあ明日な。楽しみしてるよ。」

「うん、先に店居るよ?」

「じゃあな、親友。」

「照れちゃうな…じゃあね。」

ユウはPHSを切ると部屋を出て事務室へ向かった。

「トットのヤツ…親友って言ってくれなかったな…」

ユウはブツブツと独り言を言いながら事務室へと歩いた。
そして事務室がある1階へと降り立つとユウは立ち止まり、天井を見上げた。

「やっぱ、あれか。嫉妬してんだな。何だかんだ言ってもさ。タハハ…」

ユウは嫌な笑みを浮かべると事務室に入った。

「新田さん!郵便受け!」

ユウが事務室に入るやいなや座っていた寮長が立ち上がり、ユウに向かって怒号を吐き捨てた。

「うぁあ!ちょっと、何なんですか!?」

驚いたユウは咄嗟に両手を前に出し頭を下げ、防御の姿勢を取った。
そんなユウを無視して寮長は更に声を荒らげ続けた。

「これ!郵便受けの中身!社会人なんだから郵便受けくらい確認しなさい!!」

寮長は満タンに封書や手紙が入った30リットル程度の袋をユウの目の前に突き出した。

「あぁ、郵便です…か…」

ユウは拍子抜けした様に返事をすると、寮長はため息を深くついた。

「あのね、君はまだ新人なんだろう?いい?こういう事は親がやっていてくれたんだよ。君が知らないところで何も文句を言わずに。でもここに親はいない。これからも自分でやらなきゃいけないんだ。わかる?」

『フン、この野郎何わかった様な口をきいてんだ?家庭事情なんざ人それぞれ違うんだよ。全て同じ家庭だと思って話をしてんじゃねぇよ。』

「あなたは…」

ユウは言い返そうとしたがグッと堪えた。
ここでトラブルになっても仕方がない。
そして郵便受けをずっと確認していなかった自分も問題だし、寮長が言う事も確かだ。

「さっさとこれ!部屋へ持って帰って自分で確認しなさい。いるものいらないものちゃんと確認する!分かった!?」

「分かりました…すいませんス。」

ユウは寮長から袋を受け取るとペコッと頭を下げた。

「はぁ…怒られちまった…ビールでも飲むか…。」

寮の中にある酒類の自動販売機でビールを一缶購入しユウは自室へ戻った。

・・・

ユウはベッドに座ると、350mlの缶ビールを一気に半分以上飲み干した。
そして寮長から受け取った袋から郵便物を出すとPHSの料金通知、ずっと記帳していない銀行からの通知、よくわからない広告、クリーニング店の料金表、宗教の勧誘など様々な郵便物が色鮮やかに部屋の床を染めた。
そしてそれらを眺めて数分、酔いが回ってきたユウは不安にかられた。

「お母さんに言った方がいいのかな、父さんにも…。」

ユウはそう呟くと間髪入れずに、頭を横に素早く振った。

「言う必要は無い。俺は…自分の責任の下に自由だ。うん。迷うな。迷うな、俺。」

ユウは飲みかけの缶ビールを置くと、郵便物の仕分けを始めた。

「広告ばっかりじゃねぇか…。え?汝…神に仕えし…はっ、バカか。…?」

ユウは宛名も何も記載されていない茶色い封筒を手に取った。
この手の封筒を家で見た事がないわけではない。
大概カルト宗教の広告で、家に居る時はそのままゴミ箱行きであったが、今回は寮長の言う通り自分の責任で自分で判断して自分で捨てなければならない。
ユウは寮長の言葉を思い出してその封筒を開けた。
便箋が2枚綺麗にたたまれて入っている。
ユウは焦った様にその便箋を開くと目を通した。
そしてユウは不敵な笑みを浮かべ、その便箋を付いていた折り目通りにたたんだ。

「アハハハ!何もかも明日だ!明日!明日ぁ!明日だぁ!!全部終わる!ハハハ!いや、終わらせてやる!!全部叶える!全部!全部ぅ!全部だ!!ハハハハ!」

ユウは絶叫しながら布団の無いベッドの上でジタバタしながら笑い転げた。
ユウは思った。
この日、この時の為に自分の悩みや苦しみがあったのだと。
全てのマイナス面はこの日、この時のプラスの為だと。
終わる、報われる。
ユウは一通り笑い転げ終えると、飲みかけの缶ビールを一気に喉へ流し込んだ。


※未成年者の飲酒、喫煙は法律で禁止されています。
本作品内での飲酒、喫煙シーンはストーリー進行上必要な表現であり、未成年者の飲酒、喫煙を助長するものではありません。

※いつもご覧いただきありがとうございます。down the river 最終章⑨は本日から6日以内に更新予定です。
申し訳ございませんが最終章は6日毎の更新とさせていただきます。
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今後とも、本作品をよろしくお願いします。
もう少しで本作品も完結となります。
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