徒然なるままに、情報量と幸福度について。
久しぶりに仕事しない1日を過ごした。低気圧と湿度の影響なのか、身体は重く、心も若干鬱傾向に寄り気味のせいもある。パソコンを開いたが、企画書に事細かに書かれた(自分が書いた)文字列が脳内で像を結ばない。諦めてパソコンを閉じる。
積ん読の本を片付けたかったが、小さな文字を追うには目が痛くて、これも止めた。今日は何もしない日にしようと思った。
妻とダイソーに行き、300円の起き時計と1,000円の卓上扇風機を買った。いずれも妻が欲しがっていたもの。ダイソーので充分だよ。そう言う妻にせめてもの思いで自分の財布から代金を払った。
その後スーパーで少しの野菜と牛乳、ボトルコーヒー、お惣菜や簡単に調理できる食材を買った。妻の両手の手術は水曜日に迫っている。術後は暫くまともに料理などできないだろう。冷凍食品やレトルトの惣菜など。今は生パスタでさえ冷凍のものがある。
帰宅すると待っていたかのように猫が走り寄ってくる。ご飯入ってるよ、と言うと静かにカリカリを食べ始める。子供の頃飼っていた猫は洗濯物をかじって穴を開けるは、ゴミを漁って散乱させるわで大変だったが、今の同居人は不在だからといっても不思議なほどイタズラをしない。大人しく寝ていることが多い。良い子だ。
ベッドに横になると、暫くして通知が届く。◯◯さんが◯◯を購入しました。フリマアプリだ。だいぶ前に売りに出していたCDが今頃売れたらしい。仕方ないな、と思いながらCDを梱包し、近所のコンビニへ。
何もしない日と思いながら、結構何かしらやっていた。連休の中日。100均もスーパーもそれなりに混んでいた。人に当てられて疲れる、ということが多い。単純に人が多い場所に行くと神経も体力もすり減らす。情報量が多すぎるのかもしれない。生活する上である程度は仕方のないこととはいえ、あまりに情報が多い場所は苦手だ。
東京で20年以上生活していた。しがらみもあり、時が緩やかすぎて情報に触れる機会も少ない田舎の暮らしが嫌だった。東京はモノとヒトと情報に溢れていて、良い意味の刺激や誘惑も多くて、魅惑的な場所だった。情報を扱うことを仕事にするようになってから、ますます東京の生活は不可欠なものになっていた。
家庭事情でUターンすることは自分の人生設計にはなかった選択肢だったが、当時はやむを得ず。リモートワークが一般的になったこともあり、わざわざ東京に住まなくても仕事が出来ることを知ったが、情報屋としてこれで良いのかは未だに分からない。
例えば街を歩く時、道行く人々のほとんどは自分よりも年齢の高い中高年や高齢者だ。それがダメとかではないが、たまに東京に出張した時に目にするのは自分より明らかに年齢の低い人達が闊歩する街。若い街に住むことと、老いた街に住むこととは、住む上での質が全く異なる。人の思考は環境によって大きく左右される。若い人をターゲットにしたマーケティングを考える環境として、高齢化が進む田舎に住むことが適しているのかどうかは疑問が残る。
車移動を前提とした地方。電車移動がデフォルトの都会。地方に住んでいて電車に乗る機会はほとんどない。例え乗ったとしても、満員電車なんて有り得ないし、乗っている人は高齢者か学生だ。中吊り広告もドア上のトレインチャンネルもトレインジャックもない。電車は一例にすぎないが、とにかく身の回りの情報量が少ない。
正解も不正解もないのだろう。あくまでもバーチャルではあるが、インターネットやSNSを駆使すれば、都会人並みの情報に一応触れられる側面もある。東京にいた頃が異常かどうかはさて置き、刺激と誘惑と欲望にまみれた環境から遠いことで、自分を正常に保てているのかもしれない。
妻と猫のいる生活。財布の中身はともかく、幸福度は高い。情報量と幸福度は必ずしも正比例するわけではない。
今はこれでいい、と思う。そう思いたいだけかもしれない。それでも。
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