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カウンセリングと村上春樹*ねじまき鳥クロニクルから考える

久しぶりに「ねじまき鳥クロニクル」を読み返した。

もうこの本を読むのは何度目かわからない。文庫本はかなりくたっていて、ついにパコッと何十ページかまとめて本体から外れてしまった。

久しぶりに読み返したのにはワケがある。
心理面接をするときに大事なココロ構え、を考えるときに、いつもなぜか思い出されるのが村上春樹の”ねじまき鳥クロニクル”のあるシーンだったからだ。

それは物語の後半、ナツメグと引き合わされた主人公のワタナベトオルが、40代の身なりの良い女性たちを”治す”というシーンである。

ワタナベトオル自身は、特に何かをするわけではない。強いて言えば、頰のあざが(井戸でできたあざ)熱を帯びるだけだ。女性を”治す”間、ワタナベトオルは自分の楽しい思い出を思い浮かべる。意識を離れる。

「何もしない」ということが大事なのだ。

村上春樹自身が、どのくらい心理の世界に興味があるのか、カウンセラーの態度について知っているのか、わからない。でも、そのシーンはまさにカウンセリングの本質を表してるシーンだと何度も思ってしまう。

相手の話を聞いている時、”意識”を少し離れる。そして、耳を澄まし”感じる”。
ワタナベトオルと違って楽しい思い出を思い浮かべるわけではない。
でも、”意識”を離れるためには,最初は”代わりの何か”に意識を集中するやり方もあるのかもしれない。(マインドフルネスで,音に集中したりするように)
”意識”を離れることで、多層的なココロの違う層で相手と出会う。

ユング派で言えば、”集合的無意識”で相手と出会い直す。とも言えるかもしれない。

夢と現実の間の層。

村上春樹の作品には、『ねじまき鳥クロニクル』に限らずそのようなシーンが多く出てくる。
6年ぶりの新刊『街とその不確かな壁』の主人公も現実と”間の層”の間を行ったり来たりする。
一度はその層に留まる決心をするのだけれども主人公は現実の世界へ戻ってくることとなる。

そのような作業が、まさしくカウンセリングで行われていることなのではないだろうか。
一度あちらの世界へ行って(ひとりでは危険なのでカウンセラーと共に)、そうして現実の世界へ戻ってくる。
ひとときの”あちらの世界”がカウンセリングルームなのかもしれない。
その時、カウンセラーの”あざ”が疼く。カウンセリングではその”あざ”が作用する。

読書をしていて、心が疼くこともある。

そうすれば、読書もひとつのカウンセリング=自分を癒す行為なのだろうか。
そんなことを思いながら、村上作品を今日も読む。


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