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神はなぜ悪を見過ごしているのか?


神義論


 もし全能の神が存在するのなら,なぜこの世に悪が存在するのでしょうか?なぜ神は,この世の悪を放置しているのでしょうか?「もし神が存在するのなら,なぜゆえ罪なき子供が苦しまねばならぬのだ!?」ドストエフスキーがイワン・カラマーゾフに仮託したこの叫びこそ,現代的無神論の源泉です(「カラマーゾフの兄弟」)。「神の全能」と「悪の存在」は,理論的に矛盾した概念です。神と悪の矛盾・対立を解決すべく,我々は歴史上の様々な神義論(神の正義を立証する理論)を考察してみましょう。

現世における解決


①  ユダヤ教的な応報思想


 第一の解決方法は,古代ユダヤ教的な因果応報です。つまり,「神の目から見た善人は幸福になり,悪人は不幸になる」という思想です。神の目から見た善悪とこの世の幸不幸を直結させたという意味で,最も原始的な解決方法と言えるでしょう。
 しかし,応報思想には重大な欠点があります。そもそも,因果応報は現実に合致していません。むしろ逆です。この汚れた世界は,悪人が幸福になり,善人がバカを見るではありませんか。「天路歴程」の著者ジョン・バンヤンが喝破したように,幸福な大往生を遂げるのは,人々を搾取しまくった悪人なのです(「悪太郎の一生」)。故に,現実にそぐわないという意味で,応報思想は却下されねばなりません。

②  キリスト教的な最後の審判


 応報思想は,限られた時間(人間の一生)を前提にした理論です。ならば,時間を限りなく延長し,善悪の決着をこの世の終わりまで留保しましょう。これが,いわゆる終末論です。正統的キリスト教が信じる「最後の審判」です。ちなみに,最後の審判はキリスト教に限った思想ではなく,ゾロアスター教や後期ユダヤ教も同じ立場を取りました。そういう意味において,最後の審判は一神教的な解決方法と言えるでしょう。
 最後の審判は,二つの点において重大な欠陥を内包しています。第一に,世界の破滅を信じることにより,信者が世界に対して無関心になること。まあ,当たり前の話です。消滅すると分かっている世界に,誰も関心を持つはずがありません。世界からの逃避。このキリスト教特有の傾向は,最後の審判に由来するものと思われます。
 第二の欠陥は,人種差別を助長すること。キリスト教徒はこう考えます。「最後の審判の時,キリストを信じる自分たちだけが救われる。自分たちは選ばれた人間なのだ。無神論者や異教徒は滅びる人々なのだ」と。こうして,選民思想が生まれ,白人至上主義が醸成されました。人種差別を助長するという意味において,最後の審判は却下されるべきです。

来世の導入による解決


③  イスラム教的な死後の世界


 神と悪の対立は,時間の中では不可能でした。ならば,空間の概念によって解決してみましょう。つまり,別次元の空間を想定し,その場所で善悪の矛盾を解決する方法です。具体的に言いますと,死後の世界を想定し,地獄の導入によって神と悪の矛盾を解決する方法です。
 もともと天国・地獄の思想は,イスラム教のコーランから始まりました。コーランの特徴は,絶対的な一神教の観念ではありません。それは旧約聖書にもありました。また,強固な教会概念でもありません。それは新約聖書にもありました。コーランの特徴は,具体的な来世の描写です。感覚的なアラビア人は,死後の世界を具体的に描きました。このアラビア的来世観が,中央アジアにおいて仏教と融合し,浄土宗を成立させました。我々日本人の来世観は,浄土宗系の源信僧都(「往生要集」)に由来しますが,元をたどればイスラム教に行き着くのです。ちなみに,ギリシャ的な霊魂不死の思想も,「来世導入による神と悪の解決方法」と言えるでしょう(プラトン「国家」エルの物語)。
 確かに,地獄の導入は,この世において裁かれなかった悪人を断罪することができます。が,地獄の刑罰は,福音の精神に反します。地獄があるのかないのか,私には分かりません。しかし,イエス・キリストの精神に反していると同時に,人間倫理にも反しています。あるキリスト教神学者は言いました,「天国の楽しみは,地獄で苦しむ悪人を見ることである」と。罪人のために十字架上で死んだイエスを信じる者が,なぜ故このような発想ができるのか理解に苦しみます。
 私は,こう考えています。地獄の観念は,この世の不条理に対する恨みの結晶である,と。人間は,己の恨みを解消するために,地獄という概念を創造したのです。ニーチェのいうルサンチマンです。己の精神的虚弱さの投影に過ぎないのです。

④  ヒンドゥー教的な転生輪廻


 時間をいじってもダメ,空間をこねくり回してもダメ。ならば,時間と空間の両者を用いて,神と悪の矛盾を解決しましょう。つまり,時空を旅する霊魂を想定し,霊魂の成長として悪を許容するのです。いわゆる,生まれ変わりの思想です。
 転生を支持した偉大な思想家はたくさんいます。古代最大の神学者オリゲネスがそうです。ドイツ啓蒙主義の祖レッシングがそうです。ロシアの預言者ベルジャーエフがそうです。ゲーテもまた,生まれ変わりを信じていた節があります(エッカーマン「ゲーテとの対話」)。なぜ彼らは,転生輪廻を信じていたのでしょうか?生まれ変わりの利点は二つあります。
 第一に,すべての人間が神の国成就に参与できること。もし人間の生が一度限りならば,将来成就するであろう神の国に関わることができません。違う言い方をすれば,ほとんどの人間は,神の国成就の道具となってしまうのです。つまり,転生の思想は,人間の尊厳を担保することができます。
 第二に,個人の独自性を解明できること。人間は,肉体的に両親の影響を受けています。しかし人間は,父からでも母からでもない「何か別のもの」を備えています。なぜ生まれたばかりの赤ん坊は,特定の食べ物や色や音を好むのでしょうか?なぜ人間は,両親や環境の影響から説明できない性格や才能を発揮するのでしょうか?こうした不可解な事象は,霊魂の転生を想定することにより説明できます。つまり,特定の長所・短所は前世や前々世に形成されたものであり,人間は自分の長所を発揮し短所を克服するためこの世に再来するのです。霊能者エドガー・ケイシーも,このような観点から「魂の治癒」を行なった記録があります。
 私は,人格的完成を目指す転生輪廻の思想に肯定的です。しかし,神義論の解決としては採用できません。なぜなら,生まれ変わりの思想は,空想の連鎖を招き易いからです。「自分はあの人物の生まれ変わりではないか?この人物の生まれ変わりではないか?」こうした意味のない空想を繰り広げることにより,「今・ここ」にある己の人生を忘れ,困難や逆境に対する逃避的傾向を助長する可能性があります。「私の欠点は前世の影響だからしょうがない」とか,「俺の欠点は来世で解決すればいいや」とか。人間はもともと,自分の人生を合理化する傾向があります。転生輪廻は,時空を限りなく広げることにより,それを信奉する人間に「罪を合理化する道」を提供してしまうのです。

神義論の解消


⑤  カルヴァン主義の予定論


 神義論の議論は,ここで行き詰まりました。もはや最後の手段は,「神の全能vs悪の存在」を極端に突き詰めるのみです。神の全能を選ぶか,悪の存在を選ぶか?前者の道を選んだ者が,宗教改革者ジャン・カルヴァンでした。カルヴァンは,神の絶対性を極端まで突き詰めることにより,神義論の問い自体を破砕してしまったのです。
 カルヴァンはこう考えました。「神は絶対である,故にすべては神の決定である。神は,世界の運命も人間の人生も,予めそうなるよう計画していたのだ」と。これを「予定論」と呼びます。カルヴァン自身は予定論に重きを置きませんでしたが(主著「キリスト教綱要」では数ページしか触れられていない),後のカルヴァン主義者は予定論を重視しました。
 カルヴァンは,神学的な天才です。彼の聖書注解は深奥を究め,彼の論文集は福音の本質をついています。が,予定論に関しては,大きな間違いを犯しました。なぜなら,神の全能を極端まで突き詰めることにより,人間の自由意志を事実上否定してしまったからです。自由意志を否定された人間は,単なる神の操り人形に過ぎません。
 実際,カルヴァン主義の予定論は,人間心理をその根底から毒しました。人々はこう考えたのです。「すべては神の予定である。神は,救われる人間と救われない人間を予め定めておられる。故に私は,自分が救われるかどうか分からない。しかし,もし救われる予定ならば,善行を為すはずである。清く正しく勤勉に生きるはずである」こう考えて,彼らはひたすら労働に邁進したのです。ただただ救われる確証を求めて・・・。ただ神の栄光のために働く。つまり,労働そのものが自己目的化したのです(マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)。当時,強迫神経症が蔓延し始めたのも頷けます。イエスは人間の自由を重んじました。自由を重んじたからこそ,人々の自発的な悔い改めを促すべく,十字架上の死を受け入れたのです。故に,人間の自由を否認したカルヴァン主義は,福音の精神から反れてしまったと言えるでしょう。

⑥  ヘーゲルの歴史哲学


 神義論の矛盾を解決すべく,カルヴァンとは別の道を辿った人物がいます。ドイツ観念論哲学の完成者ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲルです。彼は,悪の存在を合理化することにより,神と悪の矛盾を止揚(対立する二つの概念を高次元において解決すること)しました。
 彼はこう考えたのです。「世界史は,人類進歩の記録である。悪は,進歩を促進する材料に過ぎない。人類は,己の欠点を乗り越えつつ,歴史の終局である神の国に至るのである」つまり,ヘーゲル史観によれば,悪は善の欠如であり,悪は善の促進剤に過ぎないのです。ヘーゲルは,自由をキーワードに人類史を記述しました(「歴史哲学」)。ヘーゲルに言わせれば,文明は中国→インド→オリエント→ギリシャ→ローマ→近代ヨーロッパと流転し,人間的自由を実現してきたのです。
 私は,ヘーゲルを尊敬する者の一人です。彼の緻密な思考能力と壮大な哲学体系は,まさに天才の賜物と言えるでしょう。しかし,いくら大ヘーゲルといえども,間違いは間違いです。なぜ間違っているのか?それは,ヘーゲル的な進歩史観は,現代を絶対化してしまうからです。本当に現代社会が歴史の頂点でしょうか?科学的方面においてはそうかもしれません。しかし,倫理的方面や宗教的方面においてはどうでしょうか?私たちは,古代ユダヤ人以上に敬虔でしょうか?私たちは,古代ギリシャ人以上に知性的でしょうか?我々は,経済・科学など物質的方面においては進歩しても,精神的方面においては退化したのではないでしょうか。「世界史は右肩上がりに進歩する」と考える単細胞的な進歩史観は,完全に間違っています。
 その証左に,ヘーゲルの観念論はマルクスの唯物論を生みました。観念論と唯物論は,哲学的に正反対の学派です。しかし,両者とも共通の土台に立っています。それは無神論です。誰よりもキリスト者でありたいと願ったヘーゲルが無神論の源泉となったのは皮肉な話ですが,彼は悪を合理化することにより,神の存在をも矮小化してしまったのです(ヘーゲルのいう絶対精神は,機械仕掛けの神―デウス・エクス・マキナ―に過ぎない)。

イエス・キリストの答え


 人類史の知的巨人たちは,神義論の問題に答えることができませんでした。ならば私たちは,神の子イエス・キリストに聴いてみましょう。イエスは捕らえられた夜,「私の欲するところではなく,あなたの御心が行われますように」と祈りました。イエスと我々の違いは何でしょうか?それは,神に対する態度の違いです。イエスは神の前に立ち,主体者として神に祈りました。一方で私たちは,遠く離れた場所から神を眺め,神と悪の存在を問うています。まるで,この世の傍観者であるかのように・・・。イエスの祈りは,まさしく神義論の拒否です。自分の意志を神に捧げ,神に服従しようとする聖なる意志です。
 人間が出会う出来事は,客観的に観察できるような事象ではありません。なぜなら,神は「世界の主体」として人間を創造したからです。つまり人間は,神と悪を観察し,それから行動するような傍観者ではありません。人間は,悪を引き受け,神の御心を成就すべく,この世に遣わされた存在です。故に,この世の出来事に対して傍観者の立場がとられるや否や,神に関する疑問は不可解になります。神に関するすべての疑問を頭脳によって確実なものにしようとする一切の思弁や理論は誤りです。
 我々が神に対し,「なぜこの世に悪が存在するのか?」と問うのではありません。神が我々に対し,「なぜ汝は悪を見過ごすのか?」と問うているのです。神義論に対する神の答えは,イエス・キリストの十字架です。そして,神の答えを理解する道は,イエス・キリストに対する服従です。
 

以下は参考書籍です。



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