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自分のために行動をして得た、次の目標

誰かのための行動だけを考えて自分のことをないがしろにしていたのではないか?

と思うことが以前あった。

そう考えてからはとにかく自分のことは最優先で誰かのことは別にどっちでもよくて、まあその人のためになることがあればまあよかったね。のように考えた。

というか行動規範の様な物だった。

その結果いろいろなことがわかってきた。具体的に何?といわれるとすらすら出てこないが、
・失敗を怖がる恐怖を感じたこと。
・自分だけというのは不満ということ。
・人にこうしてほしいと想像することが増えたこと。

わかってきたというより経験したという形だろうか。自分をないがしろにするでも、自分ばかり考えるでもダメ。バランスが大事という結論ではある。

加えて、誰かのために行動するのは結局は自分のことを考えているもので、嘘をついているのような観点から、その行動をよくない物と認識していた。ここが自分にとって今重要な判断の分岐に感じる。
一見誰かのための行動であり、それに見返りを望むイメージの行動もいいのではないか?というか許してはどうだろうか?

以前は誰かのための行動に見返りなどないという結果から絶望し、そうすべきでないと学んだ。見返りがないこと、自分が不利益を被ることを恐れるようになった体感である。

ただ、与えよされば与えられんという言葉に終着するかもしれない。恐怖よりも誰かを考えた行動をとり、その結果自分のためになるようなことがおきることを願うのがいいかもしれない。

それは、命令ではない。したがって強制力はない。軽くお返しを待っているでもいい。結構な確率で見返りなどそもそもないかもしれない。

それでもこの恐怖はとても、自分にとって重要で、面白く、多くの人にも重要なのではないか?と思いました。

結論

人のための行動を増やしてみる。

久々にnote書いた。我大学4年生なので、論文読んだり考えまとめたりで、文字を見たり書いたりの機会は結構あるけども。考えをまとめる、またそのために文字を書くのは楽しい。

ちなみにこのnoteは公開をするという形では自分以外のためを考えているだろうが、結論以前の記述は考えを整理するという観点で自分のための記述であると考える。

今聴いてる曲

ホムンクルスって映画の主題歌?ネトフリで映画も見たけど、なかなか面白い。映画って作った人の考えを考察したり、普通に楽しんだりがメインだったけど、自分の感情の揺れ動きを知るという楽しみもあるんだと思いましたね。

追記20210513
見返りを求めて絶望したと仮説したが、ちょっと表現が不適切である。自分を人との接触を避ける(コミュニケーション面で自分を守ろうとする)行動が利益として存在していたが、それが不利益であると気づいた若しくは学んだ思考がおそらく絶望に置き換わる点である。
繰り返すが、気づいたことが今までの常識と真逆であり、かつそれが不利益だったから自分の記憶には絶望という認識を与えたんだろうと思いました。

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