はじまりのはなし…エピローグ⑮(終)
また年賀状が書けなかった。
小春日和の陽気な日差しが、小さな窓から射し込んだのかと思えば、もう大晦日の朝だと言う。
私はまた、数日間眠り続けていたらしい…異常なくらいの暖冬で、気候の変化が感じられず…携帯電話に表示された日付を見た瞬間は、目を疑ったし…狐に摘まれたような気持ちになった。
それでも私は彼の言う通り、精神病院に入院しているとは思えないくらい能天気で、突然のタイムスリップにショックを受けながらも、狐の事を思い浮かべただけで、早くも年越し蕎麦には大きな油揚げをトッピングして貰おうと企んでいる。
今年もやり残した事が沢山ある…子どもの頃はお正月が待ち遠しくて、あと幾つ寝ればお正月だろうと胸を躍らせていたのに…大人になった今では、自分の知らない間に過ぎてしまった時間の方が惜しくて堪らない。
私がこの病院に入院してから…1年以上の月日が流れた。母の死や早期流産によって、精神が病んでしまい睡眠障害を発症して、極度の眠気に襲われるようになり、1日10時間以上…酷い時には2、3日起きる事が出来なくなってしまい、それに加えて稀に記憶を失っている時がある。
そんな状態で働く事は出来ないし、彼の説得もあり…私は入院する事を決意した。彼はいつも…自分が勧めてしまった責任からか、予定よりも長引いてしまっている入院生活を…私の負担になっていないかどうか心配してくれる。
でも、私自身には入院が長引いているという感覚はない。それは、1日の起きている時間が通常の3分の1くらいになっているからなのか…体感としては1ヵ月が10日くらいで過ぎている様な感覚で、入院してからまだ3、4ヵ月くらいしか経っていない様な錯覚さえ覚える。
私は入院期間の長さよりも、自分だけ時間が早く過ぎてしまっている様で…なんだか自分だけが取り残されてしまっている様で...
気が付いた時には、お婆さんになっているんじゃないかと…そんな玉手箱を開けてしまった浦島太郎の様な...悲しいおとぎ話の様な結末だけは、迎えたくないと考えている。
「おっ」
「びっくりした?」
「うん…やっと起きたね」
「ギリギリセーフだったよ…1年の最後に挨拶が出来て良かった...」
「うん」
彼は照れくさそうに…私とは目も合わせずに、ポットのお湯を温め直して、緑茶を淹れる準備をしている。長年連れ添った妻のように…会話がなくても、私が何を欲しているのか察知してしまう。余り多くは語らないし、人の顔色ばかり伺っている。
気が小さいのか?…器が小さいのか?…いい人なのか?…世話好きなのか?…何にせよ、彼には感謝してもし切れないくらい支えて貰っている。
心の中では、これ以上私の為に自分を犠牲にして欲しくはないとは思っていても、結局はいつも甘えてしまう。このままだと…いや、既に依存してしまっているのかもしれない。
だからこそ私は、お互いの事を思い…彼に別れを告げた。
予定していた結婚式を中止にした事や、私が一方的に別れを告げた事が決め手となって…彼は両親との関係が随分と険悪になってしまった。元々離婚している彼の両親を、二人とも結婚式に呼ぼうと無理な説得を重ねていただけに…彼のお母さんとお父さんは拍子抜けしただろうし、その落胆と怒りは計り知れない。
私と彼が、そのまま結婚していれば…表面的には幸せな夫婦になれたのかもしれない。彼も現状よりは両親との関係が上手くいっていたのかもしれない。
それでも私は…彼にもっと自分本位になって、自分の子どもが欲しいと願って欲しかった。父親になりたいと願って欲しかった。
私はもう…どれだけ願っても叶う事はないのだから…
「私ね…来年の目標はお墓参りにする」
「そう…退院したら台湾に行って本場のタピオカじゃなかったっけ?」
「いや…それはね…そうなんだけどさぁ、真剣なんだから茶化さないでよ」
「ごめん…でも、どうして?」
「手作りのケーキをお供えしたくて…」
「お母さんに?」
「んーん、子どもにね...食べて貰うのが夢だったから...」
「そっか...」
確かに夢だった。いつか自分の子どもとバースデーケーキを作って、家族皆んなで仲良く食べる。そんな未来を夢見て製菓学校に通っていたし、ずっと頑張って来た様な気がする。でも、その夢が叶わなくなってしまった今は、本当に自分が悔しがっているのか?悲しんでいるのか?産んであげられなかった我が子を愛しているのか?...分からないままでいる。
顔すら見た事のない我が子を、イメージする事は難しく...ケーキを供えたいというのも、結局は自分を納得させたいだけなのかもしれない。消えてしまった我が子のお陰で癌が早期に発見され、命を救われた身である以上、自分の代わりに犠牲となった我が子に感謝しながら今を生きるべきだとは思う...
ただ、自分の命と子どもの命を改めて選べたとすれば私は母親らしく我が子の命を選んだのだろうか?
今となっては分からないけど、お母さんやお父さん...お婆ちゃんやお爺ちゃん...皆んなが必死に繋いでくれたこの命のバトンを、誰にも渡せないという事に対して、申し訳ないという実感はある。お墓参りがしたいという思いに至ったのは、行き場を失ったバトンに...私で途切れてしまった遺伝子に、心から謝りたいと思ったからなのかもしれない。
「変な事聞くけど...神様っていると思う?」
「急にどうしたの?」
「いや、ごめん...墓参りってのが意外で...」
「酷いなぁ~...私は神様も信じてるよ」
「え?」
驚いた彼は熱々のお茶を少し溢してしまい、軽く火傷した指をベッドの横にある小さな洗面台の蛇口から流した水に当てて冷やしている。しっかりして見えてドジな所は私といい勝負である。
「大丈夫?」
「うん...ごめん」
「面白かったよ...珍しく笑いの神様が降りたんじゃない?」
「いやぁ~、最低だよ...オーマイガーだよ」
皆んながイメージする神様とは、この世界を...私達を創り賜うた全知全能で、完璧な存在なのではないだろうか?
でも、私の思い描く神様はちょっと違う...
おっちょこちょいで不器用で、そそっかしくて心配性で、お節介焼きでお調子者で、寂しがり屋で怒りっぽくて、泣き虫だけどいつも笑顔で...何があっても許してくれて、何があっても愛してくれる。
そんなお母さんみたいな人が、神様なんじゃないかと思っている。
私が病気になってから、いつも何かを背負っているように、思い詰めた顔をしていた彼が...今は微笑みながら、何かが吹っ切れたように、軽快にコツコツと点字版を使って文字を打っている。
彼は大学生の頃...本を点訳するボランティアをしていた。その時に仲良くなった全盲の女の子と何年も年賀状のやり取りを続けている。
「今年も送るの?」
「今年は書くのが遅くなっちゃたよ...」
「毎年恒例になってるね...妬けちゃうなぁ~」
「彼女には恩があってね...」
「どんな?」
「大学を卒業する時に手紙を貰って...」
「知らなかった...何て書いてあったの?」
「それは秘密だよ...」
「隠すんだぁ~...神様、こんな意地悪な彼には...今度こそ初詣で大凶の御神籤をお与えください...」
「分かったよ...言うよ、言うよ...」
私は額の前で、祈りを込めながら組んでいた手を、マイクのように彼の口元へと近づけた。彼はちょっぴり不貞腐れながらも、恥ずかしそうに頭を掻きながら、ゴモゴモと喋り始めた。
「誰かに優しくされた時、あなたの事を思い出しますって...そう書いてあったんだよ」
「へぇ~、ラブレターかぁ~...」
「いやいや、違うでしょ...」
「怪しい...」
「まぁ、嬉しかったけどね...こんな自分でも誰かの中に残るのかなって...」
「ふーん...そっかぁ...」
「だからさぁ...ケーキなんだけど...」
「えっ?」
「お供えも良いけど...やっぱり誰かに食べて貰った方が良いんじゃないかな?」
「...うん、そうだね」
「ごっ、ごめん...なんか偉そうなこと言って」
「んーん...ありがとう」
彼は時折...私が自分だけでは気付けない様な事を、ハッと気付かせてくれる時がある。彼の語る様に、私の何かが誰かに残る事があるのかもしれない。独り善がりになって、私は勝手に自分を見限っていたのかもしれない...誰かに渡せるバトンは命だけではないんじゃないだろうか?...
私がお母さんから受け取ったバトンは...一体何なんだろう?
「お母さんのさぁ...最後の言葉って覚えてる?」
「覚えてるよ...」
「なんて言ったの?」
「えっ?」
「いや、教えてもらえないかと思って...」
「それは...教えません」
「こっちは言ったのに...ズルいなぁ~」
可哀想だけど...彼には秘密にしておこう。
きっといつか誰かに、この言葉を伝える時が来る。いつになるかは分からないけど、バトンを渡せる日がきっと来る。
バトンを渡すという事は、それまでずっと大事に握り締めていた物を、手放してしまうという事だ...
握ったままでは渡せない...
だから、私はその日まで...手放さなければいけないその日まで...あなたの言葉を大切にしたい。
お母さん...それでも良いですか?
私を許してくれますか?
私はあなたに愛されました。
誰かに優しくされた時...あなたを思い出すかは分かりません。
でも、誰かに優しく出来た時...私は必ず、あなたの事を思い出します。
「それじゃあ、そろそろ帰るよ」
「もう帰っちゃうの?」
「うん...ちょっと、実家に顔出して来る」
「えっ、本当に?」
「色々話そうと思って...」
「良いと思う...大賛成」
「うん」
「ちょっと待って...」
「ん?」
「本年も大変お世話になりました...不束者ではありますが、来年もまた宜しくお願い致します」
「何?改まって...」
「気を付けて帰ってね...良いお年を」
「ありがとう...良いお年を」
完
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