はじまりのはなし…制約⑬
陽も落ちて真っ暗になった小窓を打つ雨は、より一層激しさを増し、彼女の話もそれに伴って、その勢いを強めている。
僕は一人掛けのソファーに座り込んだまま硬直し、立ち上がる事すら出来ずに、ただ呆然としながらも、必死で彼女の話に耳を傾けていた。
気を抜く暇も無く、大学ノートに記録する事は疎か、照明のスイッチにさえ手を伸ばす事が出来ず、彼女は暗がりの中で、扉から漏れる廊下の明かりにスポットライトの様に照らされながら、はじまりの話を語り続けている。
「9つの欠如によって生まれた私の分身達は、原初とは異なり他が存在する世界の中で、それぞれが互いを求め合い…互いを傷つけ合い…良い影響を齎らしたり、悪い影響に及んだりと…真理へと近づいたかと思えば遠ざかり、
掴んだかと思えば、指の間から擦り抜けてしまうような始末でございました...中々答えに辿り着く事など出来ないと、私も承知しておりましたが...分身達は無限にある時間の中で、何度も何度も繰り返し考えあぐねている様子ではありましたが、解答らしい解答を得る事は出来ませんでした。解答が異なるのではなく、解答自体されない状況が...何年も何十年も、何百年も続いたのです」
「では...どうしたのですか?」
「制限のない世界は、無秩序で切りがございません。私は解答を先延ばしにしても有益ではないと判断し、解答までに時間制限を...締め切りを設けたのでございます。それがまさか...こんな事になってしまうなんて...」
「何があったのですか?」
「それまでは、全てが無限の世界でした...それは全てが永遠の世界、全てが存在して当たり前の世界という事でございます。時間制限を設定したという事は、それまで無限であった世界を有限にしたと言う事であり...つまりは、あなた方の世界でいう〝死〟を作り出したという事なのでございます」
僕達の命は...僕達の人生は、テレビのクイズ番組で解答者に与えられた制限時間10秒みたいなものなのかも知れない...〝死〟を身近に感じる事が出来ず、恐れて怯えてしまっているのは...まだ、自分に解答権が回って来たその時に、何を答えたら良いのか分からないからだろうか?
「私には〝死〟が、恐ろしい事であると認識が出来なかったのです。そうでしょう?答えの分からないまま存在する事の方が、よっぽど恐ろしい事なのですから...」
「それでも、死ぬのは怖いですよ...死んだらどうなるか、知らないんですから...」
「では、あなたは生まれる前...どこに居たのですか?」
彼女は入院する前までホテルの厨房で菓子作りをする仕事をしていた。彼女が菓子職人を目指したキッカケは、お母さんが残業帰りに買って来たお土産のケーキらしいが...勿論彼女自身、甘い物が大好きで、食後のデザートは欠かさないタイプだ。でも、本人曰く体質的には甘党じゃなくて、どちらかと言えば酸味の方が、どうしても欲しくなる時が多いと言い張っていた。そんな自称酸っぱい物好きの彼女との同棲生活も三年が過ぎ、食後のデザートと酢の物が多い食卓にも慣れた頃、彼女から人生で最も驚くような告白を受けた。
「赤ちゃんが...出来たみたい」
「えっ...おめでとう...いや、ありがとうかな?すごいよ...すごく嬉しい」
「最近食卓に、酢の物がよく並ぶって言ってたでしょ。それがなんと、まさかの妊娠でした」
「そうだったの?驚いたよ。でも、結婚は前から予定してたんだし、お腹が大きくなる前に結婚式だね」
そう言って僕は、目の前に置かれた胡瓜と蟹カマの酢の物を一気に掻き込んだ。酸味でむせ返ってしまった僕に、笑いながらティッシュペーパーを渡してくれた彼女が、急に神妙な面持ちになった。
「本当は言おうかどうか迷ったの・・・」
「えっ、何で?」
「うん、なんかね...母親になる自信がなくて」
「そうなの?」
「でもね、そんな時にね。仕事帰りに良く寄る行き付けの喫茶店があるんだけど、そこには看板猫が居るんだけどね...」
「猫カフェ?」
「いや、猫カフェじゃないんだけど、店主さんの飼い猫で、いつも店内をウロウロしてて、素っ気ない猫でね。近づいて来た事なんてなかったし、いつも遠くから見ているだけだったんだけど...
何でだろう?そんな時に限って、その猫が急に膝の上にポンって乗っかって来たの。可愛くてねぇ~...最初は私の太腿を肉球でふみふみして来て、その後コロンって寝転がって、二十分間くらいかなぁ~、ずっと私の膝の上に居たの。そうしたら私はさぁ~、緊張して動けなくなっちゃって、珈琲にも手が伸ばせないし、困ったなぁ~とか思っていたの。
でもね...気付いたら私、涙を流してて、それに気付いた店主さんが慌ててごめんなさいねぇ~って、猫苦手だったぁ~って」
「どうして...涙が出たの?」
「うーん、多分だけど。お母さんがさぁ~...初めて私を抱いた時って、どんな感覚だったのかなって想像しちゃって...」
「どんな感覚だったと思う?」
「不思議な感覚だったのかなぁ...猫が私の膝の上に乗っている時なんだけどね。私の身体と椅子、部屋全体が一体化したような感覚になったの...大袈裟かもしれないけど、そこから自分が居なくなって、猫の存在だけを優しく包み込む宇宙の一部になったような...んー、上手くは説明出来ないかなぁ...」
僕達は生まれる前...一体何処に居たんだろう?母の体内に宿るその瞬間に、突如として現れたのだろうか?それとも忘れているだけで、ずっとずっと昔から宇宙の一部として存在して居たのだろうか?
「八階押してもらえますか?」
「あっ、はい」
「いつもスーツなんすね。どうせ着替えちゃうのに」
「すみません」
「いや、しっかりしてるなぁ~と思って言ってるだけですよ...清掃系の経験とかないんですか?バフの扱いは上手いし、仕事は丁寧で早いし、同じシフトの時マジで助かってますよ」
「ありがとうございます」
「まぁ、今日も早く帰りたいんで、これ見て下さい」
「あっ...お子さんですか?」
「はい、一歳になったばっかりなんすよ」
「可愛いですね」
深夜のビル清掃のアルバイトで、お世話になっている年下の上司は、数台ある営業車のタイヤをスタッドレスに交換する作業で、今頃はてんてこ舞いなのかもしれない?
もしも我が子が生きていたら、彼の子どもと同い年だろう...
男の子だったのだろうか?女の子だったのだろうか?
今あなたは何処にいますか?
あなたがお腹にいると知った時、僕は本当に嬉しかった...あなたに会いたくて会いたくて、待ち遠しくて仕方がなかった。
「赤ちゃんの事...お母さんにもう報告した?」
「電話しようかと思ったんだけど...まだ検査薬の結果だから、ちゃんと産婦人科に行ってから、直接会って話そうと思ってる...」
「そっか、週末一緒に行こうよ。喜ぶだろうね...」
全ての物事はベストなタイミングで起こると聞いた事がある...でも僕はその考えには懐疑的だ。何故なら彼女のお母さんが倒れたという連絡が入ったのは、それから4日後の事だった。
「何も失わないのであれば、誰も悲しんだりはしません。全てが有限の世界へと変化した事によって、〝悲しみ〟が生まれてしまったのです。これは私の〝罪〟であり、私の〝殺人〟です。
直ぐにでも時間制限という設定を取り消した方が良かったのかもしれません。もう一度最初から遣り直す事も出来たのかもしれません。ただ、同時にあなた方の心には、それまでなかった素晴らしいものが生まれてしまったのです。それを失う訳にはいかなかった。それが唯一の希望だったのです。
それは、消えてしまうからこそ大切にしたい...壊れてしまうからこそ大事にしたいという気持ちの事です。あなた方が私の〝罪〟と引き換えに〝悲しみ〟と同時に手に入れたもの...それが〝愛〟なのです」
続く
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