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創造=学習? ベイトソンやエンゲストロームの学習理論から思うこと
創造を学習に位置づけるヒント
創造も「学習」の一種なのではないか。そうした問いに導かれて「学習とは何か」「創造とは何か」と考えるようになりました。
大辞林 第三版(2006)によれば、創造は「それまでなかったものをつくりだすこと」と定義されています。神話的な創造と区別すると、「ある社会集団に定着している認識やふるまいを批判的に問い直し、思考の枠組みを換骨奪胎の上、新たな認識やふるまいを生みだすこと」と言い換えることができると思います。
ある時、グレゴリー・ベイトソンの学習に関する理論と、それを発展させたユーリア・エンゲストロームの拡張的学習理論を知り、「これだ!」と思わず手を叩きました。先述した意味での創造は、ベイトソンが「学習III」に分類した状態であり、エンゲストロームが「拡張的学習」と定義した活動そのものだと思えたからです。つまり、創造を学習に位置づけて考えるヒントが得られたのです。
学習とコミュニケーションの階型論
ベイトソンは、「学習」を「コミュニケーション」に関わる現象と捉えるとともに、人間だけでなく、イルカなどの動物、コンピュータを含めた幅広い関心のもとで研究しました。ちなみに、「コミュニケーション」は、「インタラクション(相互作用=対話的なやりとり)」として考えるとわかりやすいと思います。
次の引用文は、『精神の生態学』に収められた「学習とコミュニケーションの階型論」冒頭に添えられたコメントです。
人類学・精神医学・遺伝学・実験心理学・機械工学のすべての視点から捉えた自然界の学習プロセス(ふるまいの変化)に、厳密な抽象的・形式的思考をぶつけて得られた本論は、科学者ベイトソンの代表的業績のひとつである
[ ベイトソン, 佐藤良明 訳『精神の生態学 改訂第2版』, p 382 ]
ベイトソンは「有機体の行動に見られる学習の現象を、論理学のフォーマットにあわせて分類しよう」と試みました。動物のみならず、機械も含めた学習を捉えることをねらいに。
ベイトソンは、学習が何らかの変化を指し示すことは間違いないとしたうえで、それが実際「どんな種類の変化」なのかを問いました。そして、物理学が変化をヒエラルキー構造で捉えてきたのと同じように、学習という変化をヒエラルキー構造で捉えることからはじめようと考えました。
すなわち学習を平板的に見ていくのではなく、学習をみるわたしたちの思考の中に異なった論理レベルの設定をはかること。[ 同上, p387 ]
また、「変化」は、時間軸をともなった「プロセス」とともにあります。難しいのは、プロセス自体が変化することです。状態の変化だけでなく、全体が違ったものに変化することだってあります。そこでベイトソンは、次の方略をとりました。
「学習」というプロセスの1番の土台となるレベルとは何だろうか。それを探り当て、その上に、関連するさまざまな観念を組み上げていくという論法が、妥当だといえそうである。[ 同上, p387 ]
こうしてベイトソンは、学習の土台となるレベルを「ゼロ学習」として基礎づけ、そこから「学習I」→「学習II」→「学習III」→「学習Ⅳ」へと変化するヒエラルキー構造を定め、論理レベルの設定をおこないました。
以下にベイトソンの学習レベルの定義を示します(翻訳された文章の文末処理の関係で、エンゲストロームの『拡張による学習』のなかに引用された訳文を参照しています)。
ゼロ学習の特徴は、反応が一つに定まっている点にある。その特定された反応は、正しかろうと間違っていようと、動かすことのできないものである。
学習Ⅰとは、反応が一つに定まる定まり方の変化、すなわちはじめの反応に代わる反応が、所定の選択肢群から選びとられる変化である。
学習Ⅱとは、学習Iの進行過程上の変化である。選択肢群そのものが修正される変化や、経験の連続体が区切られる、その区切り方の変化がこれにあたる。
学習Ⅲとは、学習IIの進行過程上の変化である。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化である。(のちに見ていくように、このレベルの変化を強いられる人間やある種の哺乳動物は、時として病的な症状をきたす。)
学習Ⅳとは、学習Ⅲに生じる変化、ということになろうが、地球上に生きる(成体の)有機体が、このレベルの変化に行きつくことはないと思われる。ただ、進化の過程は、個体発生のなかでⅢのレベルに到達するような有機体を生み出しているわけであるから、そのような個体発生上の変化を変化させる系統発生上の変化は、事実Ⅳのレベルに踏み込んでいると言える。
[ エンゲストローム, 山住勝広ほか訳『拡張による学習』, pp163-164]
学習のレベルを考察する思考実験
この定義を見ても正直ピンときません。それぞれの学習レベルがどのような状態を指しているのかを、思考実験を通して考えてみたいと思います。
次の画像をご覧ください。
ここに示された情報だけで、「穴埋め問題」だとわかった場合は、すでに学習I以上の段階にいるといえます。
ゼロ学習の段階では、「言葉と四角い枠が並んでいるけれど、どういうことだろうか?」といった具合です。情報を受け取りはするものの文脈理解には至らず、「穴埋め問題」であることを理解できません。
学習Iの段階では、「人と環境という言葉の間にどんな言葉が当てはめられるかを答えれば良いはずだ」といった具合に、似たような形式の問題を反復学習してきた経験をもとに「穴埋め問題」だと認識できます。仮に、「衣服」という言葉を当てはめておきます。
学習IIの段階では、「この3つの関係性を考察するための構造やパターンを読み解くと、さまざまな答えが生み出せるぞ」といった具合に、知識を扱う際のパターンや構造を発見してコントロールしはじめます。先ほど「衣服」という言葉を埋めましたが、どんなロジックが隠されていたのでしょうか。
この場合、人と環境の関係を「<」の構造で捉えていたことがわかります。では、「=」の構造で考えたらどうでしょう?
あるいは、包含関係で考えたらどうでしょう?
このように、対象のパターンや構造を発見して活用する段階が学習IIです。ここには、個人が学習Iのプロセスにおいて何らかのモデルを使った問題解決を繰り返し達成することで、課題を達成するための方法についての暗黙の理解が生まれるというプロセスを含んでいます。
学習IIIは、他の種には見られない人間に固有の発達と考えられています。エンゲストロームはベイトソンを引きながら次のように述べています。
学習IIでは、主体は、問題を提示されて問題を解こうとする。学習IIIでは問題や課題そのものが創造されなければならない。
[ エンゲストローム, 山住勝広ほか訳『拡張による学習』, p178]
学習IIIは、自分の認識の限界を乗り越えるために、たとえば次のような問題を意図的に生みだす段階だと考えられます。
ここには矛盾があります。一般的に、「環境」より「人」の方が大きいという設定は、常識を逸脱しているように見えます。しかしながら、「ありえない」という価値判断は本当なのでしょうか。習慣が作り出した「思い込み」ではないのでしょうか。
学習IIIは「意識的な自己変革」が現れる段階といわれます。この穴埋め問題は、あえて常識に反する「>」の関係を設定することで、自己の認識を越えた発想や経験を掘り起こすための新たな課題を創造したといえます。
システム全体を見直して、「環境」を「体内環境」と仮定すれば、何かが見えてきます。
学習IIIは、個人がそれまでの認識の限界を乗り越えるような学習であり、「天啓の瞬間」や「ターニングポイント」という言葉で語られる経験が伴います。このとき、アイデンティティを失うほどの経験が伴うと病的な症状がでてくるとベイトソンは述べています。
学習IIから学習IIIへの移行に創造が関係している
以上の思考実験はざっくりとしたものですが、意識的な自己変革を生みだす学習IIIは、まさに創造の営みについて語っているように思えます。
エンゲストロームの拡張的学習理論では、学習IIから学習IIIへの変化に焦点が当てられています。学習IIIへの移行には、ベイトソンが描くような「個人的な危機と爆発としての発達」に加えて、個人の学習から集団の学習へと発展する「暗黙の不可視の寄与としての発達」があると考えている点に特徴があります。
人間の心理的発達の基準は、人間社会の歴史的発達のなかに見いだされるべきである。(中略)人は、社会的発達に寄与することで、自分自身の個人的発達にも間接的に寄与することになる。
[ エンゲストローム, 山住勝広ほか訳『拡張による学習』, pp186-190]
エンゲストロームは、学習を「新しい道具をたえまなく創造していく人間活動」としてとらえています。ベイトソン以上に「道具」を媒介とした学習について精緻に分析しているため、ものづくりに関わる業種の方にとって馴染みやすい理論なのではないかと感じています。
人間活動の明白な特徴は、活動それ自体の構造を複雑化し、質的に変えていく新しい道具をたえまなく創造していくことにある。
[ エンゲストローム, 山住勝広ほか訳『拡張による学習』, p168]
今後、拡張的学習についても、まとめていきたいと思っています。