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論理は結局、情熱にかなわない

論理は結局、情熱にかなわない
これはプロゲーマー・ときど氏の言葉であり、彼の著書のタイトルである。ストリートファイターIVの時代に彼は『マーダーフェイス』と呼ばれ、キャラランク最上位のキャラを選んで効率的に勝ち続ける、いわば『究極の論理派』と言うべきプレイヤーが彼であった。
しかし、ある大会でのももち氏との一戦で、彼は大敗を喫することとなる。ももち氏が選んだキャラはケン。自分は徹底的にキャラ対策をしてきたし、自キャラは最強格の豪鬼。負けるはずがない。ときど氏は、そう思い込んでいた。結果は、一回も勝ちを取ることができずに終了。究極の論理派としての『ときど』が幕を閉じ、『情熱派』のときどが降臨する日でもあった。

情熱を、持てない

ときどが残したこの言葉は、私の脳に強く刻み込まれている。ことあるごとに、論理は情熱にかなわないし、自分は情熱を持つことができない人間だ、ということを強く感じさせられる。
情熱のない人間、というより情熱を持てない人間、といったほうがいいのかもしれないが。
私は小学生の頃から薄っすらと「何事にも情熱を持てない」「頑張れない」と感じていた。なにかに頑張って挑もうとしてもすぐに挫折する、放り出す、その繰り返しで出来上がってしまった人間だ。その流れは中学生になると、さらに加速してしまう。小学生の頃は夢中になって2日で龍が如く4をクリアしたり、10時間以上プレイしたりしていたのだが…
それだけ好きだったゲームに、すぐに飽きてしまうようになった。
プレイしても、30分程度で疲れてやめたり、買ってもプレイするのは1回だけ。そんなことが当たり前になり、ゲームをプレイすることがほぼなくなった。ゲーム自体は好きなので、今でも情報を追い続けてはいるが。

微かな希望

そんな私にも、高校や大学といった、比較的近い将来でやりたいことはあった。バンドだ。
私は小学生の頃にはギター教室に通っていた。まあ、三年も通っていたのに一曲も弾けるようにはならなかったのだが。中学・高校に上がると、音楽にのめり込んでいった。Queenはじめとした洋ロック、LUNA SEAはじめとした90年代ヴィジュアル系。高校に上がるとTriviumはじめとしたメタル、SixTONESはじめ男性アイドル、BTSはじめとしたK-POP…といった具合に。そんな風にのめり込んでいくと、自然とギターをまたやりたい、バンドをやってかっこよく音楽をやりたい…と思い始める。高校には軽音楽部がなかったので、その夢は大学に持ち越されることとなる。

打ち砕かれる希望

大学に上がり、とうとう念願のバンドができることとなった。当然、入学後すぐにバンド系のサークルに入部した。
しかし。すぐに希望は打ち砕かれることとなる。サークルに馴染めなかった。何度かバンドをやることはあったものの、話せる人は数人しかおらず、先輩とも話せず、同期とも話せず、打ち上げではぼっちで飲み物を飲んでいるだけ。帰り道でとぼとぼ歩きながら、泣いて、泣いて、精神をすり減らす。その状態が、半年は続いている。そんな状況だったことも関係しているのかもしれないが、ギターにのめり込むこともできなかった。バンドを組んでも、ギターを触ることができない。練習に気持ちが向かない。高校の頃想像していた自分は、ギターを頑張って練習して、輝いていた、はずだったのに。ただの怠惰からくる言い訳でしかないと自分では思っているし、そんな人間と組みたがる人間なんて、いるわけもないこともわかっている。サークルがだめだったのなら学外でやればいいと思う人もいるだろうが、趣味の入口であるサークルでも馴染めない、頑張れない奴が、学外で馴染めるわけも、頑張れるわけもない。

成功体験がない

思い返してみると、私には成功体験がなかった。小学生の頃は支援学級にいて、普通学級と同じカリキュラムで教育を受ける権利を奪われた。中学で普通学級にいったものの、英語で学年1位になったり、社会で1位になったりと勉強で頑張ったところで親からも、周囲からも、労いの言葉も祝福の言葉もなかった。

私を肯定してくれるのは空虚な数字だけだった。

それどころか、理系教科の点数が悪いという理由で親からは殴られ、蹴られ、暴言を吐かれ、外に傷がバレないギリギリのラインまで躰も心も傷つけられた。当然、高校受験には失敗した。英語は満点近かったが理系教科は一桁台だった。
高校に入っても英語の優越性は健在だったが、親はそれを『当たり前』と捉えているから褒めるなんてことはしない。
最終的に、大学は推薦を利用して国立大に入ることができた。小学校の頃に社会の底辺のような扱いを受けていたことからすると考えられない話だ。
大学合格の一報のあと、母親は涙を流していた。曲がりなりにも愛情がちゃんとあることは私が一番わかっていた。
でも、その涙を見ても、私は『報われた』とか『成功した』と感じることが、できなかった。
成功を成功体験と感じるような心は、私から消え失せてしまっていた。

加えて、重々承知していた話ではあるが、大学に入ると私の英語力は高いものではないことも思い知らされることとなった。私を唯一肯定してくれていた英語でも自分を肯定できなくなり、心のなかでただただ否定材料だけが箇条書きで並び立たれていく光景が普通になった。

情熱を持つために

長々と情熱を持てないということを引き延ばして書いてきたが、ではどうすれば情熱を持てるようになるのか、を考えてみると結局は生育環境なんじゃないのかという身も蓋もない結論が出てしまう。しかし、この結論には『情熱を持てない生育環境で育った人は一生絶望のまま生きていかなければいけない』という大きな欠陥がある。
そのため未だに情熱を持つための方法を模索しているが、その方法が見つかる予感はない。
無気力、絶望、空虚な心。そんなものを瞬獄殺できるような方法を見つけることは、私如きにできるのだろうか。



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