何の意あってか
昨日ふと
李白の詩「山中問答」を思い出す。
私に何か励ますことなどできない。
目下どん底だ。
山中問答ながら
写真は私の職場・いわなの郷だ。
でも
誰もが
コロナショックで
問いかけられている「何か」がある。
その「何か」に対して
一つの見方を提示できるかもしれない。
否
それは違う。
人に何かできることは
説教でも
説得でもなく
感化しかないのだから
問いに対する答えは
その人自身がつかむしかない!
問いが作る
深い霧に誘うことになるのが
必定だろう!
とも思いながら
徒然に記す。
最短距離でたどり着けるように生きてきた
来し方を反省しつつ。
1 山中問答
以下に漢詩を紹介する。
「山中問答」 李白
問余何意棲碧山 余に問う 何の意あってか碧山に棲むと
笑而不答心自閑 笑って答えず 心自(おのずか)ら閑なり
桃花流水窅然去 桃花 流水 窅然として去る
別有天地非人間 別に天地の人間(じんかん)に非ざる有り
2 簡単な解説
「友よ」執行草舟・著を頼りに 解説をする。
下のリンクの写真の本だ。
余に問う 何の意あってか碧山に棲む
すぐ人に問うことに辟易することが多かっただろう李白が
それなりに答えるやりとりだ。
問い自体がくだらない。
問いを受ける側は自分の人生を生き切っているからだ
と語る。
つまり
利害得失で生きている人には
碧山で棲むことは下らないと思っている!
笑って答えず 心自ずから閑なり
「笑う」には「嗤う」を当ててもいいところを
「笑う」を当てているのは人の良さだというのは前出の執行氏だ。
「バカなこと言いやがって」と怒っていないってこと。
答えなければいけない
と思うのは
現代人の発想だ。
否、李白の生きた1000年以上前もそうだったかも知れない。
でも、
何でも答えればいいというものではない!
桃花 流水 窅然として去る
桃花は咲き誇る が、いずれ散りゆく。
流水は川の流れの如く、ぶつかりながらも自然の中に収まる。
自然と同化する生き方をしていれば
窅然と去る
千変万化
無常だ。
つまり
先の問いには
答えられない。
答えようがない。
別に人間に非ざる有り
自然の外に人間は生きられない
と言っていると私はとらえた。
また
「今ここ」を離れて人は生きられない。
過去にも未来にも
本当の人生はない。
コロナショックの現代の最大のメッセージのようにも
捉えられる!
3 陰陽
私は
ずっとポジティブに違和感を持ってきた。
そりゃあ
いつもポジティブでいられたらいいけど、
それはあり得ない。
考えてみれば
ポジティブ・ネガティブと分ける考え方自体が
二元論で
西洋思想でもある。
では東洋思想は何か?
陰陽だ。
陰 ネガティブ
陽 ポジティブ
という単純なくくりではない!
例えば、
「陰極まれば陽になる」という
陰陽論の真髄となる考え方がある。
それは
陰が極まる
つまり
行くところまで行ったら
陰は反転して
陽になる
という考え方だ。
好き嫌い
良い悪い
善悪 等々
バッサリ単純に分けられない。
先の問いに対して
答えなければならない
なんて病は
現代の受験教育の弊害でもある。
問いに対して
答えが必ずある
前提で受験は成り立つ。
が、
現実世界は
答えは必ずしもあるわけではない。
あるようでないし
ないようである
「空」だ
と言ってしまえば簡単だ。
もっと言えば
その人にとって正解なら正解だ。
その人にとって不正解なら不正解だとも言える。
西洋思想を見れば
キリスト教なしでは語れない。
万人にとっての答えを追求した末に
万人が議論で答えられる解を得た。
でも、
それが現代は異常をきたした。
わかりやすいのは
一部の富裕層だけが儲かる仕組みになり、
何年か前は
大富豪8人の資産と
人口半分の資産が同じという
アンバランスを生み出した。
この発表をした
WEF ダボス会議は
来年2021年の会議のテーマを
「グレートリセット 」にしたことは
何度か書いてきた。
そもそも
自然から乖離することをしてきた。
ここ500年のことがわかりやすいが、
実は約2000年そうだったと言った方がいい。
コロナショックは
そんな人間が作ろうとした
バベルの塔が
崩されんとする
天の行為と捉えた方がいい。
と思っているのは私だけではないようだ。
単純に
西洋思想から東洋思想に
自然と共生する生き方
人間にとって
自然な生き方に戻ること
それがまた
陰陽の極意だと
私は考える。
4 文明の不合理
人間が作ったものは不完全だ。
不合理この上ない。
でも
その不合理を愛さなければ生きられなかった。
今後もそれは変わりない。
でも、
自然と共生できれば
より不合理は減る。
簡単な理由だ。
自然は調和がとれている
完璧に。
一方
人間がつくったものは
不完全である。
それは文明の初発からそうだっただろう。
それでも
文明の中で生きる以上
不合理を愛した方がいい。
それは生きやすいからだ。
その上で
これから
自然に戻っていくのならば
無理やごまかしは
減らせる。
表題の
「何の意あってか」
に対して
明確な答えは
李白だって答えないのだから
答えなくていいのだ。
でも
自分なりに持っていた方がいい。
それは
自分に対して言語化できるレベルで。
自分の言霊としてだ。
でも
さらに言えば
全て受け入れたら
自分の生き方になる。
まだ言語化できていないが
必ず
自分を生んだ意味はある。
山中問答を書いた
同じ李白は
別の詩で
こんな言葉を吐いている。
であるならば
無駄に生まれた生は
ない!
何が何でもない!
と信じるのは自由だ。
そして
信じる価値がある。
答えがどうか
でなく
主張として
今していることの先に
己の
後悔はないか?
それだけ
自らに問え!
人生二度なし
なのだから。
読み返すと恥ずかしくもなったが
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今日もありがとうございました!
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