[5000字] "歌舞伎"になった仮面ライダー。庵野秀明『シン・仮面ライダー』について②
≪前回≫
②「人間」の物語をどうするのか?
「シン」シリーズ特撮映画のコアとなる構成要素を「特撮映画を"現実"的な描写で肉付けすること」として把握すると、その肉付けの対象がある種の偏りを持っていることに気付く。
『シン・ゴジラ』では政府および自衛隊の意思決定フローや作戦行動の描写が大半のシーンを占め、『シン・ウルトラマン』でも政府交渉や公安および禍特対の描写が当のウルトラマン自身の物語を圧迫するほどの分量におよぶ。人と人との対話やそこから生まれる心情変化、いわゆる「人間」の物語は不自然なまでに少なく、全体が「組織」の物語に偏重しているのだ。
このことは公開当時から多く言及されていたし、それ自体を称揚するつもりも批判するつもりもない。物語は「人間」を描かなければならないと決めつけて規範批評をすることと「人間」を描かなかったから凄いのだと持ち上げることは何一つ変わらない。重要なのはポジショントークに基づく無意味な論争に勝利してマウントを取ることではなく、作品それ自体に偏りを肯定できるだけの必然性や納得感が伴っていたのかである。
実際『シン・ゴジラ』に「人間」の物語は不要だった。
作中のゴジラはあくまで東日本大震災にインスパイアされた「災害」のモチーフであって、作品それ自体も一個人の私的な「被災」の物語ではない。社会が「災害」と衝突する様を描こうとする作品なのであるから、個人の主観のフィルターを通してではなく政府や集団組織がどのような対応を行っていくのかを描く叙事的な形式こそが相応しい。そもそもの切り口からして、個人的な体験ではなく社会的な出来事を語ろうと試みた作品なのだ。
一方の『シン・ウルトラマン』ではこのバランス配分に様々な問題があった。
三部作構想からの流れを受けて全体の尺が不足するなか、この作品は『シン・ゴジラ』とは異なり「ウルトラマン(および神永新二)」という「人間」の物語も同時に展開する必要がある。尺は足らない、やるべきことも増えた、板挟みの状況をどう切り抜けるのか。
これは結果として中立、もとい中途半端な落としどころに収まったように思う。
禍特対や公安の描写でディティールを描き込むやり方は『シン・ゴジラ』から順当に継続し、ウルトラマンが神永の体に宿ってヒトの心を理解し自己犠牲にまで至る、「神が人間になる」物語も語られはした。両者をそれなりにこなしつつも、全体として尺の不足から『シン・ゴジラ』ほどの完成度には至らない……。煮え切らないが、両方を同時に描くのだからある程度の中途半端さは構造的に看過しうるのかもしれない。(あるいはしないのかもしれない。本当に微妙なところに収まってしまった)
こうなると問題は『シン・仮面ライダー』である。何といっても仮面ライダーといえば「孤独なヒーロー」なのだ。「組織」のディティール描写に逃げる余地がそもそもの初めから無い。こうなると本作は「シン」シリーズの特撮映画としては初の、個人および「人間」の物語を中心に描かざるを得ないことになる。
庵野秀明監督はこの課題とどのように向き合ったのか?
見事な回答を為し遂げるのか、失敗するのか、はたまた逃げ出すのか?
傑作となるか、駄作となるか……。
結果から言うと「明後日の方向に全力で猛ダッシュした怪作」だった。ワケの分からないものが出てきちまったな……と言う他なかったのである。
③"歌舞伎"になった仮面ライダー
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※ このnoteは『モノガタリのガッコウ』というwebラジオの運営が書いたものです。記事①~③全体の音声版はこちらのリンクからどうぞ。