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[5000字] "歌舞伎"になった仮面ライダー。庵野秀明『シン・仮面ライダー』について①

作品の中にちりばめられたオマージュやパロディをひたすら「元ネタ解説」するオタク的な感想を、読解や批評と呼ぶべきなのかどうか考えることがある。
基本的には「ノー」だと言いたいが、この作品に限ってはむしろそれこそが"正しい"鑑賞スタイルなのかもしれない。『シン・仮面ライダー』はそういう映画だった。

①「シン」シリーズの意義

2016年公開の『シン・ゴジラ』から始まる庵野秀明監督の「シン」シリーズ特撮映画が何を達成したのか、一言でまとめると「特撮映画を"現実世界"のように肉付けしたこと」に尽きるように思う。
東日本大震災での日本政府や自衛隊の組織対応を参考にした『シン・ゴジラ』、その流れを受けて公安組織の描写を組み込んだ『シン・ウルトラマン』。どちらもメインとなるモチーフはゴジラ&ウルトラマンというフィクションの存在ではあるが、その他一切の周辺状況のリアリティを(監督の趣味を反映しつつも)現実世界のものに近似させている。
「我々が生きているこの現実世界に、実際にゴジラが出現したらどうなるのだろう?」
「外星人からの侵略とウルトラマンの出現が同時に起きたら、社会や人々はどんな対応をするのだろう?」

前2作の「シン」シリーズの特撮映画にはこういった問いかけに答えるフェイクドキュメンタリーめいたリアリズムが徹底され、いわゆる「子ども向け特撮映画」にはならないように磨き抜かれている。
巨大不明生物への政府の初期対応およびその後の意思決定フローは? 自衛隊の作戦立案と遂行の成り行きは? 政府と外星人の間に交わされる密約とは? ウルトラマンなる存在は日本政府においてどのように扱われるのか?
こういったディティールの「描写」こそが作品のコア要素であり、出来事のストーリラインや登場人物の感情ドラマは実質的にあまり意味を持たない。庵野監督の「シン」シリーズにおいては特撮映画を徹底的にリアルに肉付けしてゆく外側の演出手法こそが中心要素、つまりは「中身」となる転倒が起きているのだ。
(より詳細には先日のPodcastで話題にしているため、そちらをご参照いただきたい。)

それでは『シン・仮面ライダー』はどうなのか。
この作品に対して、熱心な庵野監督のファンたちが既にそうしているように作中で断片的に語られる『エヴァ』的なコミュニケーションの物語に注目して考察する……といった見方も不可能ではないだろう。
ショッカーの首魁である緑川イチローの目指す救済が「人と人との間に心の壁が存在しない空間、ハビタット空間に全人類の魂を送り込む」であることやヒロインがそれを評して「地獄」と呼ぶこと。ショッカーの怪人たちに施される洗脳が「圧倒的な多幸感とともに自分だけの願望を存分に叶えるようになる」であることなど、人間という存在が他者との衝突を含んだコミュニケーションを行う生き物であることへの葛藤……庵野作品ではお馴染みのテーマが扱われている。
こういった主題の側面からストーリーラインを紐解くことを無意味なこじつけだと言うつもりはない。「孤独なヒーロー」の代名詞である仮面ライダーのマスクを他者の精神を宿した状態にして受け継ぐ結末などに監督なりの回答を見いだせないわけではない。
が、そういったいわゆる"庵野"的な話題をいつまでこすり続けるのかという話であるし、作品それ自体を素直に鑑賞すれば、それらの批評的要素は大きく後景化して"アリバイ"程度の手つきでしか挟み込まれていないのは明らかである。

当初、私も『シン・仮面ライダー』にそういったテーマ性の側面を期待していた。ただしそれはシンプルに"庵野"的な要素を求めてのものではなく、「シン」シリーズの向かう先として『シン・仮面ライダー』はある種の臨界点になるタイミングだと予期していたからだ。
シリーズの臨界点とは何か。
シリーズは複数作品を通してどこへ向かおうとしていたのか?

次回は「シン」シリーズの向かっていたベクトルについて考えてみたい。

②「人間」の物語をどうするのか?

こちら

③"歌舞伎"になった仮面ライダー

こちら

※ このnoteは『モノガタリのガッコウ』というwebラジオの運営が書いたものです。記事①~③全体の音声版はこちらのリンクからどうぞ。


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