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短編小説 「無知か白痴か」


煙突屋根が並ぶ町を一望できる丘の上、そこにぽつりと佇む赤い屋根の小屋、ドアには南京錠が三つかけられ、窓には鉄格子が施されている。そんな小屋にサバントは一人で、その日が来るまで過ごしていた。

白衣姿の白髪のボサボサ頭にたるんだ瞼と頬、ボンとでた腹と無垢な瞳を持つ彼は、数学と物理学において世界一と言われる特異な才能を持っている。愛用の手のひらサイズの三角の白紙に青い芯の鉛筆を使い底辺から数式と理論を細かく描き詰めていく。

誰もがサバントの数式や理論を使い、便利な世の中を実現している。サバントがいれば百年かかると言われている、宇宙ロケット打ち上げも数年程度で実現できると科学者は口を揃えて言う。

それともう一つ言われている、「この世は平等である」と。

サバントには四つ年上の三十四歳の姉がいる。姉のアンナトワンタは町で暮らし、毎日、警察官と一緒に丘の小屋を訪れて、洗濯物の回収し、洗濯済みの純白の白衣と下着に食事の青リンゴとパン、それとチーズを届ける。そして、濡れタオルでサバントの汗ばんだ体を丁寧に拭き、食事を食べさせていた。そして最後にご褒美の三角の白紙を百枚と青い芯の鉛筆を渡す。

姉弟の会話はいつも同じ。声変わり前の子供のような甲高い声で「また見つけた」と、サバントは数学や物理の新しい理論を話し、姉のアンナトワンタは「よかったね。またみんなが喜ぶね」と、褒める。

帰り際にサバントは姉のアンナトワンタに問いかけた。

「いつまた一緒に暮らせるの」

「きっともうすぐよ」と、アンナトワンタは優しく答えた。

サバントとアンナトワンタ出生についての記録は未だ見つかっておらず、唯一わかっているのは当時十二歳のアンナトワンタが八歳のサバントを連れて教会を訪れ、そこで親なしの姉弟として保護されたこと。教会の人間が今までどこでどうやって暮らしてきたのかを問いただしたがアンナトワンタもサバントも無言を貫いた。サバントに関しては答えないとというより、「ううー、ううー」と、唸り声をあげていた。サバントとはコミュニケーションが取れないと教会の人間は早々に勘付いていた。それから二十二年間、二人はお互いを支えながら過ごした。

サバントは姉以外の人と話すことは滅多にない。姉とすら話をしたのはほんの数回。それもサバントが一方的に嫌いな食べ物を伝えることと数式や理論の話。基本のコミュニケーションは頷きのみ。けれどアンナトワンタはそんな弟を自慢の可愛い弟を誇り思うようにしていた。

サバントの才能が開花したのは彼が十歳になった頃だ。彼は姉の算数の教科書の角に胡麻のように細かく小さなピラミッドのように数式を書き始めたのだ。姉はそれを教師に見せると教師はそれを大学の教授に見せた。それは、この世の真理の一部と認定され、姉弟のもとに教授や科学者たちが訪れ始めた。サバントは数式と理論を書き、アンナトワンタは弟の世話をし、教授たちに数式と理論が書かれた三角紙を渡す。そして対価としてたんまりお金をもらうようになった。姉弟はわずか三日ほどで町一番のお金持ちに成り上がった。

姉弟はそのお金を派手に使うわけでもなく、手に入れたお金の一割も満たない額で小さな家を買い、教会を離れて二人暮らしを始めた。教会を離れた理由は朝から晩まで働かされ、食事も満足に与えてもらえなかったからだ。教会はとにかく労働。そして窮屈。教会での唯一の思い出は赤毛のネズミに「ファンシー」という名前をつけたことだ。

二人暮らしを始めた姉弟のもとには相変わらず教授たちが訪れ、幾度もサバントと直接話をしようと試みる。しかし彼は教授たちには数式や理論を話さず、木馬のおもちゃの話ばかりしている。アンナトワンタが諭しても、彼は「ゆけブルータス君は駆け抜ける」と決まり文句を口にするだけだった。教授たちは姉弟の向かいに家を借りて、彼の生活を五年間観察し、姉の手助けなしに生活ができない事とコミュニケーションが困難な事を理由に彼を部分的な白痴の可能性があると判断された。

しかし、アンナトワンタは懐疑的に思っていた。確かに、姉なしの生活はできない。しかしそれは数式と理論に夢中だから他のことが疎かになっているだけなんだと。決して白痴などではなく、アンナトワンタはサバントのことを物事に夢中になりすぎる少しわがままな可愛い弟と見ていた。多少の面倒ごとは姉である私が引き受ければいいと。それに姉からの指示であれば、完璧ではないにせよ教会の掃除もこなし、一人で食事もできていた。

一部の教授はサバントは道化師ではないかと疑問を抱きながらも確信を得ることはできなかった。そもそも何十年もの間、白痴の演技ができたとしても、わざわざそのふりをする理由がないからだ。姉弟は金銭面では苦労はしておらず、町の住人からも慕われている。もし仮に教授たちをからかっているにしても、どんな道化師や詐欺師でさえ何十年間もボロを一切出さず演技するのは不可能に近い。どんな人でも演技をしていれば必ずボロが出る。

教授たちの間ではたびたびサバントが白痴か単なる無知な世間知らずかどうか議論が巻き起こっていた。しかしそんな議論はすぐにかき消されている。無知か白痴かどちらにせよ苦労してるのは姉のアンナトワンタだけであり、周りの人にはなにも迷惑はかかってないのだから。むしろ恩恵をうけている。議論は野暮であった。

そして時が経ち、悲劇が起こった。サバントとアンナトワンタが離れて暮らさなければならなくなった元凶。

その晴れた日の午後、三十歳の誕生日を迎えたばかりのサバントは、十二歳の友人ジュールの家を訪れていた。 時が経ちサバントも少しづつではあるが他者とのコミュニケーションが取れるように成長し、ジュールという十二歳の子供ではあるが唯一の友達と定期的に遊ぶようになっていた。

サバントが庭へ回り込むと、ジュールが赤いテンガロンハットを目深にかぶり、 力強く斧を振り下ろし薪を割っている。家族のための暖炉にくべる薪を必死に割る姿はどこか姉のアンナトワンタに似ていた。

 「サバント、ちょうどいいところに来たね。割った薪を倉庫に運ぶのを手伝ってくれないか?」

ジュールの声に、サバントはにっこりと笑って頷いた。彼は両腕に薪を抱え、白衣を汚しながら倉庫まで何度も往復していた。その途中、何度も振り下ろされた刃こぼれした斧が彼の目に留まった。

 「それ、僕もやってみたい」

サバントが斧を手に取ろうとした時、ジュールが慌てて彼の手を止めた。いくら成長したとはいえ白痴なのは変わらずだ。そんな彼が斧を持つのは赤子に斧を持たせるのと同じようなもの。

 「危ないよ、サバント。斧は重いし、扱いが難しいんだ」

しかし、サバントの好奇心は止まらない。彼の手は斧の柄をしっかりと握りしめていた。白痴ではあるが体は三十代の男の体、対してジュールはまだ十二歳の子供だ。敵うはずがない。

 「大丈夫、力持ちだから」

その瞬間、二人の間で斧の奪い合いが始まった。

 「サバント、本当に危ないから!」

 「すこしだけ」

揉み合いの末、斧が思わぬ方向へと振り下ろされた。鋭く風を切る音と共に、ジュールは地面に倒れ、た。血の匂いが微かに漂い、風が静寂を運んできた。サバントはその場に立ち尽くしていた。

やがて、騒ぎを聞きつけたジュールの母親が家の中から飛び出してきて、その惨状を目の当たりにした。地べたにジュールの頭が転がり、倒れた体の断面からは血が吹き出している。母親の呼吸が大きく荒くなっていく。一方、サバントは斧を握りしめて未だ立ち尽くしていた。白衣にはほんの数滴血が飛んでおり、ゆっくりじわっと血が広がっていった。

やがて、町の警察が駆けつけ、サバントは事情を聞かれることになった。しかし、彼の口から出るのは数学や物理の無関係な話が続き、状況の把握は困難を極めた。警察、検察、裁判所は彼の責任能力を判断する間、彼を一時的に丘の小屋に留め置くことに決めた。牢屋に入れられなかったのはせめてもの配慮からだ。

法律の専門家たちは、サバントが法律や社会の規範を理解できないのは単なる無知によるものか、それとも医療的な支援が必要な白痴によるものなか、激しい議論を交わされた。白痴であれば無罪になり医療の監視下に置かれる。無知であれば最悪、殺人罪で死刑。よくても過失致死として懲役十五年の刑が科せられる可能性があった。

その議論にはサバントを間近で観察していた教授たちも参加していた。観察していた五年間の状況とそれからの付き合いの状況を事細かく教授たちは話した。しかし話された内容のほとんどはサバントの功績だった。それは彼が死刑にならないための策略であり都合の悪いことには口をつぐんだ。それはこの先の世界を思ってのことなのかはわからないが、少なくとも今の世界があるのはサバントのおかげだ。

一方、姉のアンナトワンタは弟の無実を信じ、今まで関わってきた教授たちと共に町中を駆け回って彼の特異性を訴えた。

「無知ではない、そういう特性であり病気なんです。会話もままならず、成長のできない可哀想な弟なんです」

「サバントは無知ではない白痴なのだ。間違って死刑なれば世界の損失にもなりえる。彼なしでは世界は成長できない」

「子供が亡くなったのは残念だが、彼がサバントがいなくなれば世界中が希望を失ってしまう」

アンナトワンタと教授たちの訴えの輪は徐々に大きくなり始め、世論はサバント優勢となり始めている。ジュールの家には連日新聞記者が訪れ、母親の管理不足が原因だったのではないか、はたまた薪割りは虐待だったのではないかと追及が始まっていた。

そして、裁判の日がやってきた。法廷には被告人、白衣姿のサバントはもちろん、アンナトワンタやジュールの母親、教授たちに住民と多くの新聞記者が現れ、視線がサバントに注がれている。彼は落ち着かない様子で、手元の紙に数式を書き殴っていた。

 「被告人、何か述べたいことはありますか?」

裁判官の問いかけに、サバントは顔を上げた。ヨダレを顎にたらしながら彼は遠くを見つめている。

 「……」

無言が続き、法廷内は静まり返った。アンナトワンタは静かに傍聴席から弟の背中を見つめていた。

裁判官に検察、サバントの弁護士もお互いが目を見合わせた。この裁判が維持できるのか、結論がどうであれ終わらせることができるのか、いっそのこと結論を出さずに延々と議論の段階におさめておくべきではないのかと心の隅に思い始めていた。

裁判は続き、専門家たちの証言や意見が交わされた。教授たちが証言に立ち、サバントの特異性をこと細かに説明をしその重要性を訴えた。

もちろん、ジュールの母親も証言台に立った。ただし、意見は弁護士によってほとんど制限された。唯一意見としてのこったのは「無知か白痴かそんなのは関係ありません。ジュールが殺されたのは事実です」とその意見だけだった。

休憩時間、アンナトワンタは弟の元へ駆け寄った。

 「大丈夫?疲れてない?」

サバントは姉の手を握り、小さく微笑んだ。

 「大丈夫よ。お姉ちゃんがついてるから」

再開した裁判で、裁判官は再度問いかけた。

 「被告人、何か述べたいことはありますか?」

証言台に立つサバントは白衣の袖でヨダレを拭きとり裁判官の目をじっと見つめようやくその口を開いた。

 「僕は普通です」

裁判官は静かに判決を告げた。

 「被告人は医療的支援が必要な状態と認められます。よって、刑事責任を問わず、適切な施設での治療を命じます」

その判決に、アンナトワンタは息を漏らした。教授たちも立ち上がり大きく両手をあげ、お互い抱擁しあった。ジュールの母親は法廷を飛び出しトイレの個室にこもり息子の写真を見つめていた。トイレにはポタポタと雫が滴る音が響いていた。

サバントは即日病院施設に移送され、証言台には三角の白紙と青い芯の鉛筆が残されていた。







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