ものが在るとはどういうことかⅡ
実は「ものが在る」というのは物理的-客観的に存在することと直ちに同値ではなく、実はその「もの」は私の主観的な感覚のかたまりに過ぎないのではないか、という私がかつて抱いていた疑念を以前noteに書き記しました(ものが在るとはどういうことかⅠ)。
マトリックスの第一作を観てしばらくはそんなふうに漠然と思っており、大学に入ってから経験論のバークリーやヒューム、或いは現象学のフッサールを読みつつ、私はしばらく観念論とか現象主義とでも呼ぶべき考えに傾倒していました(もっとも、これらの哲学者の考えが私と重なっていたとまで主張するつもりはありません。あくまでも影響を受けた、というまでのことです)。そして、考えても考えても振り払うことのできない独我論(実は他人も全員私の主観的な感覚のかたまりがあらわれているものに過ぎず、本当の意味で「存在している」と言い切れる主体は私以外にはいないのかもしれないという考え方)の陰に文字通り怯えて過ごしました。
しかし、観念論や独我論からの脱出の糸口がまったく見えていない、というわけでもありませんでした。
いろいろなことが考え出されては消えていきましたが、ここではひとつだけ取り上げます。感覚だけあっても、私の世界には必ずしもものが立ちあらわれるとは限らない、という事象があるらしいのです。
モリヌークス問題
17世紀にロックが取り上げたモリヌークス問題 [Wikipedia] というのがあります。
球体と立方体を触覚的に判別できる先天盲者が開眼手術を受けたとき、開眼した盲人は視覚だけで球体と立方体を判別できるか
というものです。近代哲学史に見られるこの問いは哲学者のみならず心理学者やその他の認知科学者によっても研究されているそうですが、私がここで書きたい要点は次のようなことです。
すなわち、術語に<それ>が光学的には「見えた」ところで、そのひとはやはり直ちには<それ>を認識できないだろうということです。自分の目に初めて入る光のどの部分が、触覚的に判別できる「球体」や「立方体」に対応するのかをそのひとは学習しなければならない。そして、「球体」や「立方体」ということばで以て、自分に見えている光の一部を適切に切り分けなければならないわけです。
この論点は視覚に限定されません。
モリヌークス問題の先天盲者は触覚的には「球体」や「立方体」を弁別することができますが、これも触覚で知覚される空間の一部に「球体」や「立方体」と名づけて、ほかの空間からは切り分けてくる必要があります。
ものが在ると<わかる>
特定の感覚を或ることばで名指すことで、私は世界に存在しているもののことが<わか-る>(カ行四段活用動詞「分く」の未然形+自発ないし可能の助動詞「る」の終止形:おのずと判別されてくる、区別することができる)のではないでしょうか。存在とは、ことばではなかったか。
このような文脈で引くのはときに誤解とされることもありますが、ヨハネの福音書にもあるように「はじめに言葉があった」のではなかったでしょうか。ことばで切り分けられない知覚のかたまりは、もはや私の知っている世界ではない。ことばで切り分けることができるものしか、私には認識できない。極論するならば、存在はことばに対応しているのではないか。そんなふうな考え方に、私はだんだん移っていきました。