書評:弥助 侍伝説の歴史学的検証
アマゾンでセール中だったので
大体半額ぐらいだったのと、ポイント等で500円くらいで買えたので電子書籍として購入。読了しました。
英語版もあって、万人にも読みやすい内容
この作者の能出新陸氏、本名はAlaric Naudé(あらりっく・のーで)という、ニカラグア?スペイン?出身の言語学者です。経歴見ると英語、韓国語、日本語、中国語と複数の言語を使い分けるマルチリンガルであり、言語学や教育学で複数の博士号を持つ超人であるらしい。本著に関しては英語版も出している。
序章は安土桃山時代の歴史的な背景、文化的な背景を分かりやすく丁寧に記してあった。文章の内容としては歴史の基礎的な内容というか、それなりに優秀な高校生なら苦も無く読めるレベルの分かりやすい内容となっており、あまり踏み込んだ内容とはなっていない。
とにかく、ざっくりとした歴史・文化的な背景が記された後、専門となる言語学的な視点から当時の侍文化についての記述が始まる。
言語学的に見た、侍の名前についての解釈
「弥助の分析」の項によると、弥助の「弥」は広がる、続く、増幅、といった意味があり、「助」は文字通り助けるという意味を持つとされています。侍の名前としてはあまり強さを意味する言葉ではなく、良く言えば人助け、悪く言えば権力者に使われる側の人間のような、そんなイメージの名前となります。それ故に侍の名としては相応しくないという指摘が書かれていました。
というのも、当時の侍の名前は複数あり、
氏名:家名
諱(いみな):元服・成人の儀で与えられる真名
通称:三郎、次郎などの日常的な呼ばれ名
官職名:〇〇納言など朝廷等から授けられた役職称号
の4つに加えて、幼少期に名乗る幼名があるとされています。
家名・諱は侍を名乗る上で特に重要な部分であり、弥助はこれらの名を持たなかった事から、彼を侍とする根拠を否定しています。
弥助の名の由来として、彼がマクア族に多かった「ヤスフェ」という名が由来ではないかという説(怪しい)があるんですが、モザンビークには「ヤスフェ」という名前は確かにあったそうで、そのまま呼び名が弥助になった説を考えると、
ノッブ「お前、名前なんやねん?」
弥助「ヤスフェ」
ノッブ「おお、弥助やな?」
みたいな流れは別に違和感ない気がします。
となると、彼の「弥助」という名前は通称であった事が推察できます。
日本で生まれ育っていたわけでもないのだから幼名もある筈がないし、もしも信長から侍として正式に役職を受けていたとするならば、家名と諱を賜っていた筈で、これは必ず記録(名簿)に残っていたという事になります。家名や諱を賜る際には元服と同等の儀式的な過程を経る必要があるので、侍である筈の彼の名が史料にが残っていないのは、なおの事おかしいのです。
そもそも弥助の名は信長公記等の僅かな史料にチョロ出にしか記されていないので、ますます侍であった可能性は薄くなるという訳です。
侍は戦士でもあると同時に戦場で兵士を扱う武官でもあったが故、多様な学問の習得が求められた。特にコミュニケーション能力。
侍のルーツは平安時代に遡るため、鎌倉時代を経て室町時代を経過した時点では既に独特の家督相続文化が形成されており、武家の子は幼少期から剣術、槍術、弓術、柔術等、様々な武術の他、戦場での指揮官としての教養、即ちコミュニケーション能力やら戦略指導を叩きこまれてようやく一人前となる存在でした。
織田信長は確かに型破りな人間ではありましたが、実践に於いては特に先進的な戦術を多く編み出した天才的な戦術家でもありました。彼は木下藤吉郎秀吉のように、身分問わず能力の高い人物を好んで臣下にしましたが、戦場での能力を重視したとなれば、ろくに日本語が話せたはずがない弥助が侍として仕官していた可能性はグッと低くなります。弥助が日本にいた期間は賞味3年、僅かな日常会話程度は解したかもしれませんが、宣教師の従者か奴隷として日本に来た彼が、ひらがな、カタカナ、漢字が入り混じる日本語を完璧に習得できたとは考えにくく、本著では弥助が戦場で連携をとれる程日本語に長けた人物ではなかった事が言及されています。
この辺は言語学者らしいアプローチって感じがしますね。
追記:特に当時の日本は今のように交通手段が豊富だった訳でもなく、東西の交流も少なかった訳です。その為、国内でも地域によって方言による言い回しがかなり異なっていた事実と、織田信長もドギツイ尾張・三河弁使いであり、明智光秀のような京言葉に通じた人物を要していた事実を踏まえると、弥助が日本人と円滑なコミュニケーションを取れていた可能性はますます低くなります。
侍は二本差し。
熨斗付き腰巻=脇差?刀?説が界隈では騒がれましたが、当時は脇差は護身用で商人から鍛冶職人まで帯刀していた事実があり、弥助に与えられた刀も護身用・護衛用の脇差であった事が言及されていました。
侍である事の条件としては、脇差と太刀の二本差しが原則であり、弥助に太刀は与えられていない、また与えられた記録がない事も言及されています。また、信長は力士に太刀や財宝を与えたりもしていましたが、その力士達も四股名としての記録に留まるのみで、家名を与えられる程の役職を与えられた記録はありませんでした。弥助に与えられた禄はそれら力士以下のものであった訳ですし、力士達以上の待遇を受けた筈がないという記載もされていました。なるほど、筋が通る。
まぁ、あと力士って力(ちから)の士(もののふ)だからね。広義で言うと武士の区分でもあったわけよ。今でも土俵では三役力士が儀式的に太刀持ちをするので、信長が力士に太刀を賜った文脈には特に違和感はない。弥助は絶対に太刀は賜ってないと思うゾ~。
結論:やっぱり弥助やないかーい♪
その他、現存する資料からトーマス・ロックリーが創作したと思われる部分を丁寧に検証・解説してあったり、弥助=大黒天説の否定、弥助の伸長に関する考察など、色々と面白い記述があった本著ですが、概ね自分が色々な動画やらSNS上有志によって張られた資料等を見て考察した内容とそう相違はなく、やっぱり弥助は弥助やないかい!という結論に至りました。
さて本書、そこまで文字数も多くないし入門書のような歴史検証本でしたが、さっと読むにはちょうどいい塩梅でしたので、セール中の今、気になった方は読んでみてはいかがでしょうか。
特に弥助の虚像が広がりまくってる英語圏の方には読んでもらいたいですね。