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19 当たり前はいつか終わる。

それはいつもと同じ1日でした。
途中までは。
梅雨明けが待ち遠しいぐらいじめじめした日が続く、その中の1日でした。
いつものように起きて、いつものようにだらだらして、いつものように一緒にランチを食べた。
「今日からこの茶碗でご飯を食べる」と言って新しい茶碗を出してきた。
父が母の大嫌いな納豆を母の茶碗で食べたからである。
「そこまで嫌いかね」と思いながら呆れてた。
今思えば調子は良くなかったかも。滑舌もひどい有り様だったし、何かしらの症状は出ていたんだと思う。

だけど母はとにかく病院が大嫌いで、その日の2日前に病院行ったときも「なにもないです」と言ってとっとと診察室を出てきていた。
その後診断書を持って歯医者に行ったら午後休診で結局その診断書は出さないまま終わってしまったなぁ。貰ってきたお薬も全く手を付けていない。
兄と父の散髪を終えた後、疲れたらしく自分の寝床へ行く姿は見た。今思えばそれが最後の姿でした。

お互い痩せなければいけない状況でウォーキングしていたんだけど、その日は雨がなんとなく降っているような空模様。
普段だったら「今日は行かないなぁ」と思って動かない自分が、その日はなぜかどうするか母に確認しに行った。
いつものように声をかけたが返事がない。
寝ているようだけど、いつもの寝顔と違う。
「これはおかしい」と思い、もう一度声をかけるが返事はなし。
顔を叩いてみるけど反応はなし。
脈を探すが触れない。呼吸もしていない。これは、と思い、救急車を呼ぶ。
指示を受け、声をかけながら心臓マッサージをするけど全く反応がない。
変な動悸がし始める。
その時、出かけていた兄が帰ってきた。その旨伝えても「救急車を呼べ」しか言わない。
玄関を開けたり、父に伝えたりせねばと思い、兄に心臓マッサージを代わってもらうが「やり方がわからない」とおろおろしている。
やり方をとりあえず教えて玄関を開けたり動き回る。
その間に救急車が到着し、母の身体にAEDをつけるがエラーが出ている。
ご近所さんも集まりだし、父が倒れたんだと思っている皆さんに「母です・・・」と伝えることに。
緊急性がないようでなかなか母が家の中から出てこず、困惑するばかり。
なんとか救急車に同乗して叔母たちに連絡、病院に着いて待っていたらお医者さんから心臓マッサージをこれ以上続けるかどうか打診をされる。

なるほど、心肺停止状態が続いているし、これ以上やって脈が戻ったとしても何かしらの障害が残るだろうからこれ以上は何もしない方がいいかもしれない。今思えば今まで生きてきた中で一番の決断だったのかもしれないが、自分は即座に答えを出した。
何かあればこう動こう、心肺停止が続くとこういう障害が残る、いろんな方の経験談や知識があったから出せた答えだったのかもしれない。
その後、母を見に行き、「◯時◯分、御臨終です」とテレビでしか見たことのない風景に自分もいることになる。
意外と落ち着いていた。というか、多分どうしていいかわからなかったんだと思う。
それに、自分がしっかりしなければいけない、と常々思っていたのもあるのかも。
これからいろいろやることがあるし、動けるのは多分自分だけだから
兄に「ダメだった」とメールして父を連れて来るように伝え、叔母たちにも「ダメだった」と電話した。
姉たちにはなかなか連絡がつかなかったけど、兄にしてもらった。
自宅で亡くなった、ということでおまわりさんもやってきて、病院で話を聞かれたり、自宅で現場検証とかもあった。
葬儀屋さんにも連絡して手続きして、母はエンゼルケアへ。
初めて行く病院だったけど、他病院の受診歴があったんで死因も出せ(合っているかどうかはいまだにわからない)、検死はしなくて済んだのでその日のうちに帰れた。

とにかく自宅で逝くといろいろめんどくさいのはわかった。
ご近所さんが言うには、まだ自分たちが病院に居る時点で家の前にパトカーが止まって誰も入れないようになっていたらしい。
まぁ、事件の線もゼロではなかったんでね。
もうね、通帳残高とか財布の中のお金とか全て調べられちゃいましたな。我が家の全財産がバレることに。(笑)
それが終わって区長さんへ報告しに行ったり、葬儀屋さんと段取りしたり、すごく長い一日だったのを覚えている。とにかく疲れたと。
まぁ、葬儀が終わるまでまだまだ休めないんだけどもね。
とにかく初めてづくしでその数日はいろいろ勉強になりました
悲しいという状態はいまだに起きておりません。
正直それどころじゃない、って表現が合っているのかも。
それからいろいろありましたもので。それはまた後日。

その日の晩ごはんから使う予定だったお茶碗はそのまま誰も使わないままです。
母は食べる気満々だったんだろうけど、それは叶いませんでした。
次の週、久しぶりに温泉に行くことが決まっていて準備もし始めている状況でした。心臓マッサージをしているときも「来週温泉行くんでしょっ」と声をかけていました。それでも戻ってこなかったんで、戻れなくなってからだいぶ時間が経っていたんだと思う。
気づくのが遅かったようです。そして、今思えば出ていた前兆に気づけなかったというのもあります。
いろいろ調べたりしていたけど結局それを役立てなかったことが悔しかったりしますが、兄に「なってしまったものはどうにもならない」と言われ、諦めるしかなかった、そんな感じでしょうか。
心臓に毛が生えているような母だったんで、自分の方が先に逝くと思っていました。長生きすると思ってたんです。
だけど、病気には勝てなかったようです。てか、診察時に何かしら異常があれば言ってほしかったし、ちょっと病気に関して軽く考えていたのかも。
心疾患だったんでいつ何が起きてもおかしくないと自分は構えていたところがあったけど、当の本人がそんな感じだとどうにもなりませんよね。
いろんなことには限界があり、どうしようもないんだってことに気づきましたね。ちょいと気づくの遅かったかな。

生まれた時からずっと一緒でした。
母が自分が生まれてから初めて入院した時、どうすればいいのか考えることが多かったけれど、兄に「どちらかを捨てればいい」と言ってもらえたり、母から「毎日(気分転換を兼ねてお見舞いに)来て」と言われたり、一ヶ月強だったけど、全く体重は減ること無く乗り越えられました。(逆に太りました・・・)退院してからもいろいろやってたけど、だんだん復活してきて、わがままなのも相変わらずでいろいろ振り回されていたけれど、自分の目が開かなくなったときとか救けてもらい感謝しております。まぁ、お小言付きでしたが。(笑)
買い物もいつも一緒に行っていて疲れることの方が多かったけどそれが当たり前なんだと思ってました。
それが無くなって数年、ひとりで出かけることも多いけれど、誰かと出かけることの方が楽しかったりします。なかなか無いんだけども。
母もこんな逝き方をするとは思っていなかったと思います。温泉行く気満々だっただろうし。なので、棺桶の中は「温泉行くスタイル」にしました。
火葬するボタン押すときも「(温泉)行ってらっしゃい」って言って押しました。
途中から足腰立たなくなったけど、なんとか葬儀は出来たかと。いろいろやらかしてるんで怒られてるんだろうけど聞こえていないので気にしない気にしない。
そういう話はしてなかったんだけど、納骨は母の実家のお墓に入れることに決めました。まぁ、最終的にはこちらのお墓にもちょいと入れたんだけどね。「父と一緒の墓には入りたくない」って言ってたんだけどさ。
叔母たちが気をつかいまして。
そういうのいろいろめんどくさいよね。
ただ、母が居なくなった、ということで毎年やっていたことでやらなくてよくなったこともあり、それはまだ楽だったかなと。
それ以外はしんどいばかりだけども。
とにかく、もっと母にはいろいろ楽しいことしてもらいたかったです。
願い(孫を抱かせろ)を叶えられなかった我々兄妹にはいろいろ重くのしかかるのでありました。
今、そばに居て当たり前の方はいつか居なくなります。自分の方が先に居なくなるかもしれません。
なので、後悔のない一生は難しいけれど、少しでも楽しい出来事がみなさんにありますように。

せめて看取りはしたかったなぁ。


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